井上ひさし『自家製文章読本』(新潮文庫、1987年)書評

sunchan20042004-12-30

最近、なぜ自分はまるでとりつかれたように読み、書くのか。なぜ最近自分は歴史とか歴史の記憶のされ方にこだわっているのか。この本を読んで答えが少し見えて来た気がする。

たしかにヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王『時間』と対抗してきた。芭蕉は五十年で時間に殺されたが、しかしたとえば、周囲がやかましいほど静けさはいやますという一瞬の心象を十七音にまとめ、それを書きとめることで、時間に一矢むくいた。閑さや岩にしみ入蝉の声はまだ生きている。時間は今のところ芭蕉を抹殺できないでいるのだ。(中略)書庫から鴎外漱石露伴を取り出し彼等の文章にふれるとき、わたしたちはこの三大家が文章に姿をかえてちゃんと生きていることを確認する。その瞬間に時間は折り畳まれ、ヒトの膝下にひざまずくのである。せいぜい生きても七、八十年の、ちっぽけな生物ヒトが永遠でありたいと祈願して創り出したものが、言語であり、その言語を整理して書きのこした文章であった。わたしたちの読書行為の底には『過去とつながりたい』という願いがある。そして文章を綴ろうとするときには『未来へつながりたい』という想いがあるのである。(12〜13頁)

なんと美しくて味わい深い文章だろう、と自分は思う。うまく書けない、言いたいことがうまく表現できない、という葛藤だらけの自分にとって、「それでも書きたい・読みたい」という想いは決して意味のないことではないのだと、この本に励まされた気がする。

義務感やノルマを推進力に書かれた文章は味気がない。読者の視線をはねかえしてしまう。だが、書きたいことがある故に書かれた文章の字面は、かえって読者を吸い付ける。」(201頁)

自分も気取りすぎたり、相手に理解させるつもりがないとしか思えないような文章を書くことのないよう、そしてその結果読者の視線をはねかえすことのないよういちいち顧みるくらい、自分の文章に意識的でいたいと思う。