「甘えているわけじゃない」(高橋源一郎)

9月26日の朝日新聞朝刊での高橋源一郎の論壇時評「甘えているわけじゃない」より。
全文は http://digital.asahi.com/articles/TKY201309250780.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201309250780

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忘れられない光景がある。ぎりぎりまで働いて子どもを迎えに行くので、保育園に着くのは延長保育のリミットあたり。だから、毎日、近くの駅から走った。すると、たいていすぐ近くに、一緒に走っているお母さんがいるのである。2、3分遅れても文句はいわれないだろう。でも走るのだ。汗で化粧がはげ落ち、目にうっすら涙の気配。


「子どもが待っていますので」とはなかなかいえず、まるで罪人みたいに申し訳なさそうに会社を出たこと、子どもが誰もいなくなった部屋でひとりで待っているのではないかと思うと胸が締めつけられそうになること、こんなことなら働くんじゃなかったとつい思ってしまうこと、それらが胸の中で渦巻いているのだ、とぼくにはわかった。なぜなら、ぼくもそう感じていたから(とりわけ、小さな土建会社で働いていた20代の頃は)。


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曽野綾子という人が週刊誌で「出産したら女性は会社をお辞めなさい」という旨の発言をして、物議を醸した。曽野さんは「産休」のような「女性をめぐる制度」は会社にとって「迷惑千万」だと否定していた。そして、そういう制度を利用する女性は「自分本位で、自分の行動がどれほど他者に迷惑をかけているのかに気がつかない人」だというのだ。


ぼくはそれを読んで、そんなのウソだよと思った。だって、ぼくの知っている働くお母さんたちはみんな、悲しいぐらい一生懸命、会社や周りに「迷惑をかけない」ようにしていたからだ。どうして、もっと権利を主張しないのだろうと思っていたからだ。曽野さんはぼくとは違う世界に住んでいるのだろうか。


曽野さんの発言は、単に、働く女性へのバッシングではなく、すぐに「婦人公論」で上野千鶴子が指摘したように「セクハラ、パワハラ、マタハラと、職場にタブーがどんどん増えて、男が好き勝手できなくなっちゃった。そんなの俺たちイヤだよう」という、潜在する(一部の)男性の考えを、代弁したものに思える。だが、もっと深刻な問題は、曽野さんのことば(と、それを含めた週刊誌の一連の報道)が、いまこの国で噴き上がっているヘイトスピーチと同じ本質を持っていることだ。


前掲誌で、上野さんは「このやりかたは、生活保護不正受給バッシングとまったく同じ」といった。高橋秀実は「どんな制度でも悪用したり、甘える人はいるものです。だからといってその制度自体が悪いわけではありません」と書いた。在日、生活保護受給者、公務員、等々。彼らへの糾弾は、その中の少数の「違反」者を取り出し、まるで全員に問題があるかの如く装ってなされる。そこでは、彼らの「特権」(があることになっている)が怨嗟の的となり、やがて、およそ権利というものを主張すること自体が敵視されることになるんだ。


こんなヘイトスピーチやバッシングを行う当事者の多くが、実は、社会的な弱者に分類される人たちであることはよく知られている。妬ましいのだ。すぐ近くの誰かが、自分より恵まれている(らしい)のが。悲しいことだが、彼らの気持ちは理解できないことはない。でも、曽野さんのような恵まれた立場の人が、後輩である若い、働く母親たちを後ろから撃つような真似をすることは、ぼくには理解できない。


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現代思想」の特集は「婚活のリアル」。「婚活」とは「結婚を目標として積極的に活動すること」、それはもはや、特殊な出来事ではなくなった。


竹信三恵子・大内裕和の対談では「九五年から〇五年の一〇年間で非正社員が五九〇万人増えて、正社員が四四六万人減」り、「二〇歳から六四歳の単身女性の三人に一人が貧困ライン以下」、「一旦(いったん)仕事を辞めたあと年収三〇〇万円以上の仕事に再就職できる女性は、わずか一割前後」、「年収三〇〇万円未満が非正規雇用労働者の九割以上」といった衝撃的な数字が並び、それにもかかわらず、まるで「万世一系」のように「男は外、女は内」という「普通」の「家族モデル」が生き延びている、と指摘している。


それどころか、石田光規が書くように、経済的条件は劇的に悪化しているのにもかかわらず、かえって「昔ながら」の家族像を求める人々も増えている。そして、赤石千衣子が嘆くように、「普通」ではない生き方を選んだ「非婚の母」は、社会から排除されてゆくのである。


この特集では主として、「結婚」を目指す若い女性が立ち向かわざるを得ない困難な状況が分析されている。けれど、彼女たちの不幸は、その相手となる男性の不幸でもあり、そして、この社会全体の不幸であることを忘れてはならない。