仲正昌樹『ネット時代の反論術』書評

ネット時代の反論術 (文春新書)

かなり過激な、ネット上での論争対処術の本である。論争に勝つこと自体に意味はないとか、論争の答えは社会的な力関係によって決まるとか、そもそも論争主体の人間の理性を信頼していないとか述べられていて身も蓋もないが、それが安易でお気楽な「ディベート」本とは性格を異にしているところでもある。

「思いついたらすぐ批判する」ことを筆者は「脊髄反射」と呼んでいるが、技術が大衆化するのに伴ってそういう脊髄反射的人間が激増した。批判する自分のポーズ自体が目的化して、論争の中身や質は二の次なのである。この書評ブログでも、言葉遣いに気をつけないと、脊髄反射人間が言葉尻を捉えてああだこうだ言ってくる。自分がブログで使う言葉の知的・文化的水準が低い内容については、それに応じてコメントの質も知的に劣ったものになる。この本を読んで少し反省した。

若い頃、具体的に言うと、三十代の半ばまでは、もう少し「言葉の力」なるものを信頼していたし、人と“言い争い”になったら、論理的にシロクロつけないと気がすまないというところもあった。しかし、偉い人は、こちらがいくら真面目に批判しても、金持ち喧嘩せずという調子で無視するし、うさばらしで誰でもいいからと見境なしに喧嘩をふっかけてくる2ちゃんねらーのようなバカ者たちは、こちらがいかに論理的に話をしても理解せず、馬耳東風で聞き流してしまうということが実感として分かってきた。社会的立場上、反論せざるを得ない場合は別として、話の通じない連中は、本気で“反論”する価値のない蛆虫のような存在であり、それに反論したいという欲求を抱いてしまう自分も、人間のクズである、というニヒリズム的な認識を持つようになった。(215〜216頁)

そこまで言うかという気もするが、論争に過剰な期待を抱いてはいけない、というのは全くその通りだと思う。「話せば分かる」なんて大嘘である。大概は相手にしなくていいのである。

私も思想史関係の仕事をしていて、新聞や雑誌に政治的な問題について意見を述べることが多いので、「答えはひとつ」と思い込んでいる人たちから、何度かひどい目に遭わされてきました。相対的なものの見方ができる人だと相手に期待していると、意に反して頑強に答えを出したがる人が多いんですね。そんな時、いわゆる“大人の対応”をしようと思うと、「逃げている」と責められたりします。相手が「逃げた」と宣言することによって、自分が「勝った」と考えたいのでしょう。こういう態度を取る人たちには、「話が混乱しているのでもう一回、こういうことにしようか」と狂言回し的なものの言い方をすることさえ、受け容れられないんですね。そこで、ろくでもないパターンにはまってしまう。特に、弁証法を正しいと思っている相手との“論争”には、あまりいい思い出がありません――最近では、相手が単純弁証法の人だと分かったら、最初から本気で相手にしていません。(117〜118頁)