エリック・ホッファー『波止場日記―労働と思索』書評

波止場日記―労働と思索

波止場日記―労働と思索

訳者があとがきで書いているように、ホッファーは自身を「大衆」「労働者」の一員と見なし、その立場から知識人批判を行っている。訳者の解説にあるとおり、ホッファーは「知識人」という言葉に独特な意味を与えている。よって、ホッファーの知識人批判に対して、「そういうあなたも知識人では?」という指摘は的外れとなる。ホッファーにとって知識人とは、「自分が社会を指導しなければならない、そして自分にはその権利が与えられているのだという意識を持つ人間」(244頁)のことであり、「大衆」と「知識人」を分けるのは「労働に従事しているか否か」(同)であるという。「労働」の定義がいまだ曖昧ではあるが。本書の中にはホッファーが生み出す多くの名言がちりばめられているが、中でも最も鋭く核心を突いているのが、知識人についてのものであるように思われる。

知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることの方が大切なのであり、無視されるくらいならむしろ迫害を望むのである。民主的な社会においては、人は干渉をうけず、好きなことができるのであるが、そこでは典型的な知識人は不安を感じるのである。彼らはこれを道化師の放埓と呼んでいる。そして、知識人重視の政府によって迫害されている共産主義国の知識人を羨むのである。(2頁)

典型的な知識人は自然の操作――山を動かし、川の流れを変えること――からは力の意識を引き出せない。知識人は人間の操作に熱中する。ソヴィエト・ロシアの卓越したインテリゲンチャは、自然を手馴づけ支配するために巨大な計画を実施するが、この計画を人間を手馴づけ統制する手段として利用する。知識人は人々を放っておこうとはしない。(127頁)

人間を「トルー・ビリーヴァー」(=神聖な大義のためにみずからの生命を犠牲にする覚悟をしている狂信者、231頁)に変えてしまう熱情は、知識人の言葉が生み出す。その熱情は資本と技術の代わりとなり、熱情に冒された人々は、喜んで全くの無報酬で知識人のために働くのである(60頁)。ファナティックな大衆運動における知識人、あるいは言葉の役割がここで改めて確認できる。


さらにホッファーは、アメリカという国が、知識人の言葉を必要としないまま、史上初めて大衆が「自分の力だけで何ができるかを示す機会を持った」(176頁)国であると書いている。今となってはアメリカの一般大衆も「一般大衆」という言葉で一括りには到底できないほど多様化・階層化してしまっているが、アメリカ建国という歴史的な事件の最も特異な点が大衆の力から来ていたことは確かだろう。また、ホッファーが60年代にアメリカで一種のブームを起こした時に、ベトナム戦争で自信を喪失していたアメリカ国民の心情に訴えたことは確かだが、だからといってホッファーのアメリカ大衆論を単なる「アメリカ礼賛」として解釈することほど的外れなものはないだろう。ホッファーは、大衆も含めて人間すべての本質を抉り出しているのである。


現代における大衆の見方については、自分は大衆の中に大きな可能性を見出しているホッファー的大衆観よりも、その病理的な側面に焦点を当てた西部邁の大衆観のほうが受け入れやすい。しかし、実際には両者の大衆批判と知識人批判は矛盾しているわけではないだろう。現にホッファーも大衆を冷静かつ批判的に見ているし、西部の大衆批判も彼の知識人批判と表裏をなしている。それは、人間誰しもが大衆的側面と知識人的側面を併せ持っているからである。かつて単純労働とされた仕事でさえも高度な知識や技術を必要とされる現代の「高度知識社会」においては、なおさらそのような両面性が顕著になっている。ホッファーが生きそして見ていた時代とは異なり、現代は、大衆が知識人のように振る舞い、同時に知識人が大衆のように振舞うことが当たり前のように考えられる時代になってしまっている。新しい大衆論が必要なのだと思う。