山内『イスラームとアメリカ』、布施『アラブの怨念』2冊書評

アラブの怨念 (新潮文庫)

アラブの怨念 (新潮文庫)

ハンチントンの論に納得できずに、かねてより文明の衝突論に批判的だと言われる山内氏の本を読んでみた。そしてそのあと少し経ってから読んだのが、毎日新聞特派員による本である。二つの書を読んで改めて感じたのは、ハンチントン流に「イスラム文明」として一つの枠組みに押し込めるには、イスラムおよびアラブ諸国間にはあまりにも未解決の問題が多すぎるということであった。

まず、周知のことながら第一に確認しておかねばならない前提として、「ムスリムだからといって全員が同じ政治やイデオロギーの目標を共有してはいない」(山内、173頁)ということである。イスラム内部において、伝統重視派と近代化推進派、スンニ派シーア派、アラブ人とペルシャ人など、様々な対立の構図が存在する。その対立の根深さは、異文明、特に西欧文明に対して抱く憎悪など遠く及ばないかのごとくである。

またイスラムとは範囲が異なるが、「アラブの連帯」というのもその実態はかなり怪しい。旧植民地帝国の英仏に対抗する上では不可欠であったかも知れないが、それはアラブ諸国間の対立を消し去ったわけではない。それを実際に体現してみせたのが1990年の湾岸戦争であった。アラブがアラブを侵略する。イラクの侵攻に対して、PLOとヨルダンはイラク支持の姿勢をとり、他方でエジプトやサウジは米軍を筆頭とする多国籍軍に国内の基地の使用を認めた。この戦争の原因は思想的な対立ではなく、石油をめぐる利害関係であった。

国家の利害をめぐってイスラム内部、またはアラブ内部に憎悪が渦巻く。この憎悪を詳細に調べれば調べるほど、「イスラム文明圏」として一つにくくることの虚しさがつのる。そもそもイラクは、「アラブ社会主義バース党が支配する世俗体制の国」(布施、178頁)である。キリスト教徒の数も少なくない。そのイラクの大統領であるサダム・フセインが「『イラクこそ真のイスラム国家』と唱え、米欧との『聖戦』を訴え」ても、「いかにも唐突な感じ」(同上)がするのは免れなかった。アメリカとの戦争のために「イスラムの連帯」を利用したと見なすのが妥当だろう。戦争の前はサウジやクウェートやUAEの「石油過剰生産」を、原油価格を下落させるとして強く非難していたし、革命を成し遂げたイランのホメイニ師とは宿敵であり、そのイランと8年に及ぶイラン・イラク戦争を戦っているのである。

近年のイスラム脅威論のせいで、長い歴史を持つイスラム内部の対立が過小評価されている観はぬぐえない。このため、アメリカが「イスラーム主義に徹底して対決してきたイラクのサッダーム・フサイン大統領との妥協をはかって、内外におけるイスラームの脅威への対抗要因として、フサインの『名誉回復』をはかって関係を修復する時期が来ないとは断言できない」(山内、46頁)という山内氏の予測が不気味に響く。今ほどイスラムの深い理解が求められている時はないのではないか。

両著者はそれぞれの著書で、民主主義とイスラムの関係について述べている。まず、山内氏は、イスラムと民主主義の関係について三つの立場があると言う。その三つは以下のものである。

①「イスラーム自体がすでに民主的だと強調する立場」(山内、88頁)
②「イスラームが民主主義と相容れないと公言する立場」(山内、90頁)
③「世俗的な西欧型民主主義のアンチテーゼとして、イスラームには独特な民主主義が備わっていると積極的に考える立場」(山内、93頁)

しかし、③の代表的人物が「民主主義が神の法によって制限された人民主権を意味するだけならば、民主主義も神の唯一性と矛盾しない」(山内、94頁)と言っていることを引用し、山内氏は「この解釈は、イスラーム急進派が現実に権力を握った場合に、かれらの思想的理念と政治的リアリズムを妥協させる点で効果的かもしれない」(同上)と評価する。民主主義とイスラムの関係を楽観的に見ていると言えるだろう。両者による価値観の共有を楽観的に見る姿勢は、以下の箇所にも現れている。

すべての社会は善と悪、真と偽の考え方をもつ以上、人間そのものとして普遍的に利益となる善を価値として共有もする。幸福の追求、正直、愛などについて、公然と否定する人びとや宗教は例外にすぎない。人類普遍の価値観である『人権』や自由の無視が文化相対主義の立場から許されていいはずがない。(中略)文化相対主義と政治・外交解釈のパラダイムは非対称なのである。(山内、72〜73頁)

ただ、ここで疑問に感じるのは、「幸福の追求、正直、愛」は別にして、ここで言われている「人権」と「自由」は西洋のモノサシではないか、ということである。この二つは西洋とイスラムでは意味するところが全く異なるだろう。典型例が女性の地位についてである。西洋から見れば、それは「自由の無視」と映るのだろうが、イスラムの人々はそうは考えない。山内氏は、価値観の共有を強調するあまり、途中から西洋の価値観に偏っているところはないだろうか。

対照的に布施氏は、「イスラム圏の『民主化度』を論じる難しさ」(布施、327頁)を指摘する。「『デモクラシー』という西側のモノサシを手に取った途端、私たちはイスラムを客観的に論じる視座から滑り落ちてしまう」(同上)と。先ほどの三つの分類で言うならば、②または③のどちらかになりうる。筆者は例として、国会と政党が存在し、女性の服装もアルコール類も自由なイラクと、国会も政党もなく、絶対君主制で厳格なイスラム統治をしくサウジを比較する。前者は反米で後者は親米であり、それによって西側の見る目が大きく変わる。「独裁者」呼ばわりされるのはもっぱら前者の方である。

両者とも真理の一面を突いていることに間違いはない。ただ、価値観の共有に楽観的すぎるのも現実によって幻滅させられるであろうし、逆に差異ばかりを強調しても生産的な議論はできない。極めて限られた範囲の価値観を足がかりにして共存をはかる以外に途はない。なんら新味のない考えだが、皆これ以外にないことが分かっているからこそ、陳腐なものになるまで言い続けるのだと考えることにする。