Leonard J. Moore, Citizen Klansmen書評

Citizen Klansmen: The Ku Klux Klan in Indiana, 1921-1928

Citizen Klansmen: The Ku Klux Klan in Indiana, 1921-1928

“Media Professor”だという噂を聞いていたリクトマン教授の授業「米国政治文化における保守主義」の課題図書の1冊。本書は一般に流布されているKu Klux Klan (KKK)のいささか単純化されたイメージを修正しようと試みるものである。南北戦争終了後の「再建期」(Reconstruction)と市民権獲得運動の勢いが最高潮に達した60年代に見られた暴力的なKKKのイメージとは異なる、1920年代におけるより広範な社会階層の支持を受けた「もう一つの」KKKについての事例研究である。そして20年代KKKが最も大きな集団となったインディアナ州において、選挙で大勝し政治的成功を収めるまでの過程と、そのすぐ直後にリーダー間の反目によってあっさりと衰退していく過程を本書は丹念に追っている。

映画などで有名になったKKKによる黒人リンチなどは、20年代KKKの運動には見られなかった。20年代KKKによる運動は、人種・民族間の紛争ではなく、急激な経済の発展に伴う社会的・文化的変動(モラル、とりわけキリスト教的価値観の衰退、ビジネス・エリートたちが公的領域のほぼ全てを牛耳りつつあることへの懸念と無力感、移民の大量流入による治安の悪化など)に焦点を当てたものであった。そしてこの社会的・文化的変動に最も敏感に反応し、20年代KKK運動を支える基盤になったのが、白人プロテスタントである。著者はこの運動を「白人プロテスタントナショナリズム」(white Protestant nationalism)と呼ぶ。

さらにKKKに対する誤った印象として、地理的偏向性が挙げられている。KKKの参加者は「知的に劣った田舎の貧しい白人」でも「少数派移民の流入に危機感を募らせた都会の中流白人」でもなく、実際には都市と地方の両方に満遍なく分布していたことが本書で証明されている。また、経済的なステイタスでは「下級中流階級」(lower middle-class)が他の階層より多少多いが、10ドルの会費を払えない低所得者層と、妙な噂がビジネスの命取りになるビジネス・エリートの参加率の低さを除けば、特定の経済的ステイタスへの偏りも見られない。また、運動の性格から考えて参加者の多数派がプロテスタントであることは事実だが、プロテスタント内の宗派への偏りはなく、特定の教会へ属していない者も多数いた。

つまり著者は、これらの事実を通して、20年代KKKが「極端分子による社会的に逸脱した運動」ではなく、広い範囲にまたがる「一般市民(average citizen)」の支持を受けて成り立っていた運動であることを明らかにしようとしているのである。そしてKKKの指導者たちもそうした運動の性格を個人的利益や政治力のために利用したのであり、そこでは過激な人種差別的イデオロギーはこの集団を特徴づけるものではなかったのである。

コミュニティの価値を維持または再建しようと試み、急激な変化に抗おうとする保守的運動は、過激な思想の持ち主らによって推し進められているのではなく、一般市民の素朴な価値観によって下支えされているものであることは、十分に理解できる。しかし、そうした運動に対抗する移民やエリートの側も自分たちの素朴な良心を信じて行動するために、そこに妥協の困難さが生じる。たとえ人種や民族の観点から見て排他的な運動であっても、そこに簡単に善悪の線引きをすることができないことが、この紛争の最も困難な点なのである。

本書の内容は、著者自身も指摘する通り、禁酒主義、原理主義、反共産主義、反進化論、反フェミニズム、そして近年のニュー・ライトなどといった他の社会運動の理解にも大きな示唆を与えるものである。過激な思想を持った「おかしな連中」による運動としてではなく、我々とそうたいして変わらない一般市民が保守的な社会運動の担い手になっているという認識は、近年のネオコンのイメージについても認識の修正を迫るものとなるだろう。一地方のみに焦点を当てた歴史研究が、保守主義ナショナリズムの実証研究として大きな意義を持つことに素朴に感心させられた。