宮本みち子『若者が≪社会的弱者≫に転落する』書評

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

近年、定職に就かないでアルバイト代だけで生活を維持している「フリーター」に対するバッシングが喧しくなっている。税金や保険料を支払うこともなく、仕事の重大な責任を負うこともほとんどないフリーターに対して、「最近の若者は怠惰で気力がない」とか「責任感がない」といった非難が向けられているのである。「パラサイト・シングル」という言葉もすっかり定着した。これは特に日本の若者に顕著な特徴であるが、結婚して自立したり恋人と同棲するよりも、月に2,3万ほどの金を渡す代わりに親と同居することを選ぶ若者が激増しているのである。それによって家賃・食費を浮かすことができるという経済的な理由からである。まさしく親に「パラサイト」してモラトリアムを延ばしている若者の実態がそこにはある。


パラサイト・シングル」論は、積極的に社会に参画しようとしない若者に対して、常々苦々しい思いを抱いてきた大人たちをなるほどとうなずかせることになった。その背景には、数十年後にこの若者達が社会の中核的な存在になり得るのかという大人たちの懸念がある。


本書は、このような議論に疑義を呈するものである。結論を言えば、このような若者が増えている最大の要因は社会経済的なものであって、若者の怠惰・無責任が本質的な要因ではないということになる。本書では、社会学の立場から、現在若者が直面している深刻な事態を多くの詳細なデータを駆使して分析し、安易な印象論によって若者を論じることを峻拒する、刮目すべき一つの調査である。香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』では、単なる印象から導く結論のいい加減さに辟易させられたが、本書はそのような安易な若者論とは全く性格を異にしている。


さて、その内容である。実は自分も以前からフリーター・バッシングには何か釈然としないものを感じてきた。それは、日本経済が長い不況に陥っている中で、そのような存在を必要としているのはむしろ企業の方だと思っていたからである。言うまでもなく企業の最大の負担は人件費である。とりわけサービス業は、単純な労働を低額の時給でアルバイトにやらせることで、人件費を大幅に節約することができている。もしそのような安い時給でもやってくれるフリーターの存在がなければ、いらない正社員が解雇されるだけのことである。もちろん気力の萎えた若者が多くなっていることは事実の一面かも知れないが、そこにはもっと大きな社会経済的な要因が働いているという著者の主張にはもっと耳を傾けるべきだろう。


著者によると、現代の若者は、「親に援助してもらえるかどうかが社会的地位の決め手となっている」(38頁)。そこには、若者がもはや親に頼る以外にない三つの大きな要素が働く。


労働市場の悪化 ②必要とされる教育水準の上昇 ③家族の不安定化。(51頁)


労働市場が悪化したことで、若者自身の職どころか、若者がパラサイトしてきた親の雇用環境も大きく悪化している。若者が職に就く機会と範囲には以前よりも大きな制限が存在している。そのような状況では、援助を引き続き期待できる若者ともはや期待できない若者の間には格差が生じることになる。


②18歳人口のおよそ半分が大学へ進学するようになって、高等教育の大衆化がほぼ極限に達すると、さらに大学院へ進学しようと考える者も大幅に増えることになる。それに伴って若者の「モラトリアム期間」はさらに延びることとなり、それだけ自立する時期は遅くなる。その長い期間、親の援助を期待できる人とそうでない人とでは、教育や就職に格差が生じる可能性がある。


③離婚率の著しい増加(特に欧米)によって、片親家庭はもはや珍しくはなくなった。しかしそれによって片親家庭の子供が受けられる教育に大きな制限が出るようになった。日本ではまだ離婚率が低いということもあってそれほどこの格差は顕在化してはいないが、近い将来には欧米の状況に少しずつ近づく可能性が高い。


以上からわかるように、今の若者が直面する事態というのは、若者バッシングをして解決するようなものではないのである。むしろ高度経済成長の真っ只中に就職期を迎えた団塊の世代は、定職に就けるという意味では幸運だったと考えるべきだろう。現代の若者にとって、以前のような高度経済成長はもはや望み得ないし、その頃に比べてはるかに高い創造性とスキルを問われるようになっている。自分達と同じレベルで今の若者を非難しても、恐らく何も変わらないだろう。


著者の指摘の中には興味深いものがたくさんあった。その中の一つに、「経済的依存者であるはずの青年や子ども、そして扶養される女性が、消費市場では高い地位を得ることができてしまうのである」(77頁)というものがあった。これは経済的には親に依存していながら、家庭の購買嗜好に若者達が大きな決定権を持っていることを意味するだろう。消費市場では、「稼げるかどうかより、買うかどうかが重要なのである。」(同上)ここで自分はブランド物を買い漁る女性や高いゲームソフトをねだる子どもを想像してしまった。消費市場ではこのような女性や子どもが重要なターゲットであることはもはや周知の事実である。


ではこのような若者を抱える親自身はどのように考えているのだろうか。欧米では日本よりも子供にできる限り早く自立を促す傾向が強いため、親との同居率は日本ほどではないらしい。その代わり、特にヨーロッパでは若年層の失業率が深刻な社会問題になっている。日本で若者の失業が欧米ほど深刻ではないのは、この同居を親たちが許容する空気が強いことと密接に関係している。

子どもを育てるにあたって、親は当然、子育てのゴールを念頭に置くはず。ところが、社会が豊かで平和になると、親離れにかかわる規範や仕組みが明確でなくなり、ずるずると親子関係が続きがちになる。「自分のやりたいことを見つけなさい」という親がもっとも多い。じつは、自分たちの世代が体験してこなかった変動の時代のなか、自分たちには理解しがたいメンタリティをもつ子どもを前に、ゴールをどこに定めて子育てしたらよいのかわからなくなっているのだ。(148〜149頁)

若者における「モラトリアム心理の変化」も見逃せない現象である。小此木啓吾が「モラトリアム人間の時代」を論じた頃に比べて、モラトリアムの質・量ともに大きな変化が起こっているのである。そこにはモラトリアム期間を積極的に受け入れ評価する現代の若者の心理が現れている。

古典的なモラトリアム期の若者が、半人前意識に悩まされ、修行中の禁欲的生活意識をもっていたのに対して、新しいモラトリアム期の若者は、全能感と解放の感覚をもつ者へと変化した。前者が、上の世代をモデルに自己を直視しながら、自立を渇望し、モラトリアムから脱して一人前になることを志向したのに対して、後者は上の世代との間の隔たりを意識し、局外者の立場に身を置き、社会のメインストリートに入って行くことを望まなくなっていくのである。(74頁)

しかしこのような「新しいモラトリアム」がこの先長く続けられるほど、余裕のある状況に日本の経済と社会はないことも明らかである。このような複雑な事態に対しては、特効薬と言えるものがないのが世の常である。著者は「モラトリアム人間の消費志向をレベルダウンし、生活の価値を転換することが必要」(92頁)だという。生活の価値の転換とは、量的豊かさから質的豊かさへの転換を意味している。陳腐な言い方のせいで下手をすると聞き流されてしまいかねないが、本来ならもっともっと注目を浴びていい問題であることに変わりはないのである。