堺屋太一『組織の盛衰』(PHP文庫、1996年)書評

組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか (PHP文庫)

組織の盛衰―何が企業の命運を決めるのか (PHP文庫)

初めて堺屋太一の本を読んだ時(『新規の世界・転機の日本』)、「あ、これは学者の書く文章だ」と思った。抽象的な物言いの好きな書き手だという印象を受けた。案に違わず、本書も同じような調子で書かれている。そして自分はそういう文章が嫌いではない。しかしながら、あとでまた述べるように、このような文章を書く学者肌の作家であるがゆえに、この本のサブタイトルである「何が企業の命運を決めるのか」という問いに彼が答えるには、かなりの限界があるように思われた。

さて、堺屋が本書を書くきっかけとなったのは、「人間社会においてきわめて重要な役割を担って来た組織の研究は、驚くほどに少ない」(84頁)という思いを強く持っていたことであった。「今日、『組織論』として言われているのは、大半が行政や企業の組織を管理制御する方法や一時的活性化手法であって、組織の本質に迫る研究ではない。」(85頁)政党や政治機構、軍隊機構などに関する研究には高度なものもあるが、「これらの大部分は組織の観察と影響を論じることに主眼が置かれ、組織そのものの種類や要素、機能や構造に関する体系的な理論にまでは到達していない。」(9頁)つまり、個々の組織の影響力やその内部構造などを調べるケース・スタディ的な組織研究は存在しても、組織というものを普遍的に体系化する理論的研究はほぼ皆無に等しかったというわけである。

堺屋はその理由として、「組織と学問との気質的な背反性」(9頁)を挙げる。

実際社会で組織の運営管理に当たる人々は、現実志向にならざるを得ないので学問的興味が乏しい。一方、学術研究に秀でた人々の多くは、組織的な思考が薄く面倒な実務に入りたがらない。この結果、組織は存在としては認められても、体系的な学術研究の対象とはなり難かったのではないだろうか。(9〜10頁)

誤解を恐れずにいえば、今日においても学問に関心の深い人々は非組織的であり、組織の内情に通じる人々は実践的で学問的興味が薄い。組織の歴史や本質、抽象化された組織の生理と病理などに深い興味を持って追究する暇と情熱を持つ人は少ない。このため、組織の問題は常に実利的実践的にしか行われなかったのではないだろうか。(86頁)

個人が組織的か非組織的かという区別は、その個人が研究もしくは関心の対象として選ぶものとあまり関連性はないようにも感じられるが、組織研究の未発達には物理的な要因もあるようだ。つまり、組織の体系的研究が乏しかった原因の一つは、「組織史の史料的限界だろう。組織は人間の関係によって成り立っているので、遺跡遺物がほとんど残らない。美術史や科学史は、物的証拠が多いが、組織史にはそれが乏しい。文献の面でも役職名や組織図が出てくる程度である。しかも文献に登場する役職名や機構名も、その名にふさわしい機能を持っていたという証拠にはならない。」(85頁)

さて、組織を崩壊に導く要因として、著者は冒頭で以下の三つを挙げている。(4頁)

①成功体験への埋没。②環境への過剰適応。③機能体の共同体化。

そしてこれらが原因で崩壊した歴史上の組織の事例として、豊臣家、帝国陸海軍、そして日本石炭産業を挙げている。とりわけ帝国陸海軍を引き合いにして、個の優秀さが往々にしてマイナス作用を引き起こすことを指摘している箇所(「世の中では、組織に属する個人が優秀なら、その組織は優秀だと錯覚し易い。しかし、優秀な個人を集めた共同体化した機能組織ほど危険なものはない。」(67頁))は、組織構成員の優劣の問題以上に、組織そのものの構造的問題がはらむ深刻さを暗示している。

では組織の頽廃・腐敗、崩壊を防ぐにはどうするか。「組織に揺らぎを与えること」(66頁)だと堺屋は言う。そしてその揺らぎの結果、組織改革に成功したのがアメリカの海兵隊であった。では組織にとっての「揺らぎ」とは何か。それは「シビリアン・コントロール」である。

日本ではこれ(=シビリアン・コントロール)を、軍人はとかく好戦的で侵略戦争をしたがるので、軍の勢力抑制のためには首相と防衛庁長官文民を置くのだ、と理解されているが、必ずしも正確ではない。(中略)シビリアン・コントロールが重要なのは、専門性と終身性の故に共同体化し易い軍隊を抑制し、組織に揺らぎを与えるためには、軍人共同体の外部の人間(文民)を上に置かねばならない、という点である。(185頁)

このことは軍隊に限らず、本来なら目的達成能力という「強さ」が問われるはずの機能体組織(企業、軍隊など)が、その強さを置き去りにして、組織構成員の満足・利害を最優先する共同体的組織になってしまった場合にも言いうる。つまり、軍隊の場合のシビリアン・コントロールのように、機能組織の共同体化を防ぐには、外部から与えられる緊張感が不可欠ということだろう。

機能組織の共同体化は、倫理の逸脱を導く。しかし、この倫理の逸脱が組織の士気をくじくかと言えば、そうとも言えないところに問題の深刻さがある。

こうした世間からの逸脱がまた、一段と彼らの結束を固くし、忠誠心を深める効果もある。倫理の違いは判断基準と功績評価を変え、他の社会では評価されない(むしろ非難される)行動を、その組織内だけでは賞賛される。このため、そうした行動が得意な者が集まるようになるからである。つまり『俺らは他では生きれぬ仲間』故に、ただただ結束し相互評価することで、自己満足と存在価値を感じようとするわけである。(234頁)

「実際、人事評価の基準こそは、組織の性格と構成員の行動を規定する最大の要素である」(319頁)のだから、内輪でしか通用しない規準が組織を規定するのを防ぐためには、何かしらの圧力、つまり「組織の揺らぎ」が必要ということになる。

堺屋の造語である「知価革命」が、組織のあり方のみならず、個々人の生活様式までをも劇的に変えつつあるという主張に関しては、特に言うことはない。ただ、「機械技術情報の重要性」が増したのに伴って、「対面情報技術の有用性が低下した」(265頁)という認識はどうだろうか。福田和也が『悪の対話術』の中で、「社会」と「社交」を区別してそれぞれの重要性を認めているように、この両者は矛盾するどころか、相互的に補完関係にあって、それぞれの重要性を高めていると考えるべきではないだろうか。そう認識してこそ、堺屋が終章で唱える「ヒューマンウェア」の理念も現実味を帯びてくるというものだろう。

最後に、冒頭で述べた堺屋の文体について一言。組織の体系的な分析は自分にとっては大変興味深いものだったが、果たしてこの分析から来る著者の結論が、実社会の企業人たちにとってどれほど有益なものとなり得るのだろうか。堺屋が提唱する組織改革の理念はかなり抽象的・理想的で、大体の人は総論としてはすでに分かっていることだったのではないだろうか。彼の言う「組織と学問の背反性」は確かに存在する。著者自身、この背反性を超克できなかったことからもそれは明らかである。

【補遺】
「地位が人をつくる」という考えについて。地位が人をつくるのは、「本人の自覚や修練、周囲の補助補完によるところもあるが、何よりも重要なのは地位が情報環境を決定することである」(258頁)という箇所を読んで思い出したのは、日本は国連安保理常任理事国に加わるべきか否かという議論である。否定派は、「どうせ日本が常任理事国になっても何もできやしない」とか「常任理事国になれば軍事的な国際貢献も要求される」と考えているが、上記の考え方からすると、実際にメンバーになってみないことには、その地位がもたらす情報環境に入ることもできないし、そのせいでいつまでも常任理事国入りができないということにもなる。なったらなったでいろいろな問題に直面するだろうが、それは新しい情報環境に身をさらす上で避けられないステップなのではないだろうか。「地位が人をつくる」ならぬ「地位が国をつくる」と考えるのは楽観的すぎるのだろうか。