岸本葉子『なまいき始め―私の転職・留学物語』書評

小谷野敦の本の中で初めて「岸本葉子」という名前を知った。小谷野が絶賛するので、その時は「きっと面白いエッセイを書く人なんだろう」ぐらいにしか考えていなかったが、この本に関する限り、自分にとってはそれだけでは済ますことのできない著者であることが分かった。それは、著者が「青春の焦り」について考えたことが、まさしく今の自分に当てはまったからである。

著者は東大を卒業して生命保険会社に就職する。しかし社会人としての生活が始まっても、「ここでいつまでもこうしてていいのだろうか」という思いはいつまでも消えない。「自分はまだ何もしていない」(74頁)という気持ちが常に自分を追い立てる。何をしたいのかはわからない。「世の中にははじめから、(これで行こう)と方向を定めて突っ走れる人もいるだろう。そういうのこそ人生だと思われているフシもある。けれども私の場合は、どうもそうではないようだ。」(235頁)不安を打ち消すためにとにかく書いた。会社に埋没しない自分の個としての存在を証明しようとして。

会社での時間と自分だけの時間がどんどん離れていく様子が書かれた箇所は、非常にリアリティがあった。

まるで、会社に入るということは、自分をまるごと会社に預け渡したみたいに、形としてはなっている。でもそれは形だけだ。私は給料をもらうからにはもらう分だけの関わり合い方は会社に対してするけれど、それ以外は絶対関わらせない。それ以外の部分をいかに多く関わらせているかがいい社員なら、私は決していい社員になどなりたくない(22頁)

もっともっと時間が欲しい。一日が二十四時間と決まってるのが、本当に口惜しい。会社にいる間なんて、それはそれなりに忙しくはあるけど、時間に追われてるうちに入らないよ。本当に追われてるって思う時間がはじまるのは、帰ってからだ。(116〜117頁)

書いてる時間と、そうでない時間と、一日の中の時間がはっきりと分かれていく。(略)書いてる間だけが唯一、何て言うんだろう、現実感があるっていうくらい。(略)逆に、書いてるときにくらべて、会社での現実がいかに私からは遠いものであるかを感じる今日この頃だよ。(121〜122頁)

自分のやりたいことへの思いが強ければ強いほど、社会人としての現状が自分の中で不適応を起こす。程度の差こそあれ、みんな同じような経験があるに違いない。

会社に限らず、自分の属する集団や組織への関わり合い方に一線を画して、自分だけの場を確保するというのは、特に日本においては難しいのかも知れない。「共同体化」しがちだ。そういう状況で自分を外部から守ろうとすれば、組織の中で浮いた存在になってしまう。著者の「書く」という行為を、自分のやりたいことに置き換えるならば、その境遇に共感できる人はかなり多いのではないだろうか。

自分だけの時間を持てないということの悲劇は、会社勤めをしたことなどない自分にも痛いほどよくわかる。だが、この「自分だけの時間」というものの価値をわからない人も世の中にはたくさんいる。社会人の中には、「自分の世界」での事柄を「学生気分が抜けない」とか「お勉強」と言ってその重要性を豪も認めようとしない人がいる。自分も若気の至りで、少し前まではそういう人と口角泡をとばして言い争ったものだが、最近では「わかってくれる人だけがわかればいい」と思えるようにもなった。だけど、自分と同じくそう言われてカチンと来たり傷ついたりしている人もいるだろうからあえて言うけど、かわいそうなのはむしろそういう自分だけの時間を持てない人の方なのだ。誰もが経験する「青春の焦り」を集団への意識的埋没や刹那的な快楽・娯楽でごまかして、いざ退職するという時になって自分の人生の意義について悩んだりするのはそういうタイプの人ではないのだろうか。自分は木原武一の以下の言葉に強く賛同している。

ひとりでものを考え、ときにはひとりであることを苦しみ悩み、そして、世に価値あるものは孤独のなかからしか生れないことを知ることも大切ではなかろうか。ひとりでよく生きることができてこそ、ふたりでもよく生きることができるのではなかろうか。(木原武一『孤独の研究』PHP研究所、1993年、203頁)