鳥飼玖美子『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』書評

TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ (講談社現代新書)

TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ (講談社現代新書)

実は著者には一度会ったことがある。とはいっても読売ディベートトーナメントの講評スピーチで遠くから見ていただけだが。その時の印象は、「知的ユーモアがあって素敵な人だな」と感じた。彼女の言うことはいつも合理的で説得力があり、ファンの一人である。

彼女は、言わずと知れた同時通訳の草分け的存在。彼女に憧れて同時通訳を目指す女子大生が当時は大勢いたという。そしてその彼女が、自分が目下格闘中のTOEFLについて意見を述べているとあれば、これは読まずにはいられないだろう。

本書で彼女が疑義を呈している一般通念には、以下のようなものがある。

①日本にいてなかなか英語力が伸びなくても、現地へ行けば自然に英語力は上がり、TOEFLの点数も上がる。

②学校教育で教わる英語は「使えない英語」であり、文法ばかり気にして実践的な英語(リスニングやスピーキング)を教えていない。

③日本人は「聞く・話す」は苦手だが、「読む・書く」はかなりできる。

④日本人のTOEFLスコアがアジアでも最下位のレベルにあるのは、受験者数が圧倒的に多いために、「お試し受験者」の数も多く、そのために平均点が下がるのは当然だ。トップレベルでは比較的スコアの高い他のアジア諸国(中国、韓国など)に劣ってはいない。

彼女の意見にはほとんど首肯できたのだが、実は④に関しては、自分もこの本を読むまではその通りだと思っていた。しかし実態はそう単純ではないようだ。

まず①について。これは彼女の言葉を一部引用するだけでその意味するところは明らかだろう。

現実には、海外経験は英語学習にプラスにはなるけれど、留学さえすれば問題は解決、というようなものではない。むしろ日本で英語ができなかった人は、海外へ行ったところで上達度もそこそこだから、英語圏に何年もいたというのが信じられないような英語力の持ち主がいくらでもいる。TOEFLの点数が不足してアメリカの大学に入れないとなると、とにかくアメリカに行けば英語が上達してTOEFLスコアも上がるだろう、と考えて大学付属の語学学校にまず入学し、しかし結局は規定の点数を獲得できないまま、正規入学は果たさず、語学学校もしくは付属のESLコースでうろうろしているだけ、という『留学生』が何と多いことか。海外に行きさえすれば、というのは単なる言い訳にすぎないことを肝に命ずべきである。(12〜13頁)

②については近年人口に膾炙する一般通念であるが、これは大きな間違いである。

外国語で内容のある話をしようと思ったら、体系的な文法知識を応用することは当然である。複文を組み立てたり、仮定法を使ったりすることは日常レベルでもあるわけで、そういう際に、文章を作り出し組み立てる力を支えるのは基本的な文法・構文の知識である。(84頁)

文法の勉強というのは不必要で難解な文法用語を覚えることだと考えるから、文法に対する誤解が生れるのだろう。実際に最も早く効率的に語学をマスターするには文法を確実にモノにすることであり、文法ほど語学を学ぶ上で親切なツールはないのではないだろうか。

③については耳の痛い話しだが、実際に日本人は「聞く・話す」のみならず、「読む・書く」も全くできていない。いやむしろ、TOEFLの点数だけで見れば、他のアジア諸国に圧倒的な差をつけられているのは「読解力」のセクションである。長文読解のセクションで差をつけられている上、「コミュニケーション能力の重視」を謳う近年の新しい英語教育を受けているはずの若い世代の「コミュニケーション能力」(すなわちリスニングとスピーキング)は、その読解セクションでつけられた差をカバーするほど伸びてはいない。むしろほとんど変化していない。

これは一体どういうことなのだろう。自分はこの箇所を読んでいて、「大量にかつ速く読むことのできる人は、まず間違いなくリスニング能力も高く、リスニング能力の高い人は確実にスピーキングにも強い」と言っていた松本道弘の説を思い出してしまった。つまり読む・書くはできるが聞く・話すはダメなどということはありえないのであって、この4つは密接に関連しているということである。ここから、近年の文法軽視・実践英語重視の教育方針に懐疑的にならざるを得ないだろう。

④は多少説明を必要とする。確かに日本人の受験者数は、他国と比較して圧倒的に多い。世界最高の平均スコア(619点[ペーパーテスト])を持つノルウェーの受験者数は40名、603点のスウェーデンは137名、ヨーロッパで最大でもブルガリアの437名に対し、日本は9万9134名で断然トップ。(95頁)母語と英語の言語的距離の違いもあるから、これらの諸国とは一概に比較することはできない。

ところが、日本とほぼ同じか近い受験者数を持ち、かつ母語と英語との言語的距離もほぼ同じ韓国(8万5235名)と中国(9万2499名)は、平均スコアがそれぞれ533点、559点である。日本人の平均スコアは504点である。(94〜95頁)そしてすでに述べたように、この大きな開きは、文法セクションと長文読解セクションから来る。

世代別に見ると、日本の平均スコアを下げているのは、10代後半から20代前半までの世代(16〜18歳の平均は469点、19〜22歳は485点)。ところが、韓国、中国では反対に若い世代のスコアの方が高い。また、アメリカへの日本人留学生の69%が学部留学であることを考えれば、19〜22歳のスコアが低いというのもおかしい。「10代の受験生は、ほんの力だめしで受けているから真剣さがない、動機づけの不足だろう、という見方もあるが、それなら韓国や中国の10代はどうして我が国の10代より高得点なのだろう。TOEFLが北米の大学に留学するために必須の条件であることを考えると、海外留学をめざすことの多い大学生が真剣でないとは考えにくい。」(107〜108頁)

結論としては、日本では「『英語は必要』と言うばかりで、何のために、どのような英語が要求されるのかが煮詰まっていないから、見当違いの方向に流れが向かっているような感もある」(16頁)という著者の主張を真剣に受け止めるべきだろう。近年、英語公用語化論や会社内でTOEICを昇進の基準にしたり、国家Ⅰ種試験受験者にはTOEFL600点レベルの英語力を義務付けるなどの動きがあるためか、スコア熱が過剰なまでに高まっている。しかし、著者も言うように、試験は所詮試験である。「TOEICではいまひとつのスコアだった人が、全人格をかけて談判したら、つたない英語でありながら、その迫力で相手が納得してしまった、ということだってある。考えながらとつとつと語る人は、スピードが勝負のような試験では本領発揮できないが、実際に相対して話すと、人間味あふれる話し方で相手の心に響く、ということがありうる。それが人間であり、そういった意外性や可能性を秘めているからこそ、人間は面白いのだろう。」(120頁)逆に、国家の言語政策として特定の集団にTOEFLで何点以上という義務を課するのは、愚の骨頂である。なぜなら、そこには英語を学ぶ個々人が「どのような」英語が必要なのかという一番肝心な議論が抜け落ちているからである。

英語が国際語であるという事実に立脚した上で、日本人全体が身につけることが望ましい英語力を目安として出すことが教育政策上はありえても、現実に英語を使う、あるいは使わない、という選択は個々人が行うべきことであり、1億人がすべからくTOEFLで何点以上を取得すべき、などという言語政策はありえないし、あってはならない。それは国家の傲慢であり横暴であり余計なおせっかいと言うべきものである。」(157頁)(ちなみに国民一般のレベルで定着が望ましいとされる英語力は、英検3級程度だそうである。(119頁))

自分の場合は英語を学ぶ目的ははっきりしているから、学ぶ意味も自分で理解している。でもそれに没頭するあまり、途中から手段として学んでいたはずの英語が、悪い意味で目的化してしまうことにはこれからも敏感でいつづけようと思う。