安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』書評

太宰治 弱さを演じるということ (ちくま新書)

太宰治 弱さを演じるということ (ちくま新書)

文学に限らず芸術作品を味わう前に、その作品についての評価を読んだり聞いたりすることに否定的な立場の人もいる。作品を味わう前に「色眼鏡」を着けてしまうからである。しかしながら、このような考え方は、一面において傲慢ではなかろうか。他人の解釈や意味づけを知った上で作品を味わうよりも、先入見を持たず、自分の感性だけを頼りに作品を評価することの方が、少なくとも自分にとっては価値のあることだと考えることに、本当に根拠があるだろうか。このような疑問を持つに至ったのも、太宰治を浅くしか読んだことのない自分が、本書を読んで太宰治という人間に強い興味を抱くことになり、今後太宰の小説を読む際にはかなり意識的な読み方をするだろうと確信するに至ったからである。

これまで主流だった太宰治論においては、マルクス主義からの転向や度重なる心中未遂事件から来る「罪の意識」が太宰文学全ての根底にあるとされてきた。罪の意識ゆえに一人苦悩する無垢な男、「無垢ゆえに世間の思惑に利用され、排斥されていく一人の殉教者―その背後にあるのは徹底して社会の偽善と戦う作者の姿であり、自己破滅的な作風をもって社会の権威に立ち向かう「無頼派」の神話が、ここに誕生することになったのだ。」(43頁)

本書の目的は、このような太宰神話を相対化し、神話から太宰を解放することで、太宰の新たな魅力を引き出すことにある。「少なくとも自虐的な倫理によって自らを金縛りにしていく「英雄」の姿よりも、類いまれなことばの使い手としての側面に光を当てた方が、「太宰治」の魅力はより生き生きとよみがえってくるように思われるのだ。」(126頁)

太宰神話の解体が終わった時、なぜ現代においても若者の間で太宰が熱狂的に読まれているのかが明らかとなる。そこに現れるのは、他者との距離の取り方に苦しむ孤独な太宰の姿である。そうした姿に、「今日的な孤独」に苦しむ現代の若者が共感を寄せているのである。

互いに過度に干渉したくない。周りの人間と違う自分を、無用な接触を避けつつ、絶えずどこかで確保しておきたい。けれどもそこだけに閉じこもることも不安なので、他者への窓口は開けておきたい。疎隔の度合いを絶えずチェックし、知悉しておかなければいられない。へだたっていると同時にどこかでつながっていたい。そういったバランス感覚で勝負していく、とでもいうのであろうか。これはある意味では非常に繊細な神経を必要とし、気を使う営為でもある。結果的に気が付いた時には一人になっている、というのがきわめて今日的な「孤独」の状況なのではなかろうか。(12頁)

そして著者による太宰の読み替えにおいて最も重要な役割を果たすのが、アイデンティティを獲得する際の人間の悲しい宿命であった。

虚構を虚構と知りつつ、なおかつそれにすがって生きねばならぬ人間の性が、どのようなことばを必然とし、あるいはまたそれに裏切られていくのか、という検証を通して「文学」は始まる。そしてそれはまた、あらゆる「アイデンティティ」は自らその崩壊の瞬間に立ち会うことによってしかこれを把持することはできないという、永遠のパラドックスに通ずるものでもあるにちがいない。(183頁)

孤独な個人がアイデンティティの確立に苦しめば、他者との共生感を必死に追い求めるし、故郷や国家といった集団的なアイデンティティの対象が存立基盤を失いつつある時には、それらに対するアイデンティティは必然的に強まる。崩壊しつつあるアイデンティティにすがりつくことでしか自己の存在証明を獲得できない人間の宿命こそ、太宰文学の重要なテーマだったのである。