坂口安吾『堕落論』(角川文庫、1957年)書評

堕落論 (角川文庫クラシックス)

堕落論 (角川文庫クラシックス)

群ようこの書評エッセイ『鞄に本だけつめこんで』(新潮文庫)の中で本書が登場したので、自分もすぐに読んでみることにした。日本人の偽善に対する坂口安吾の強烈な批判には、読んでいて圧倒されずにはいられなかった。

安吾形式主義に対する批判は、形式を虚構のものとして単に唾棄するだけのありふれたものとは違う。「節婦は二夫に見(まみ)えず」「忠臣は二君に仕えず」などといった大義名分は、「人性や本能に対する禁止条項であるために非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点においては全く人間的なものである」(93頁)ということを鋭く見抜いている。つまり日本の武人は、「女心の変わりやすさを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出するに及んだまでであった」(92頁)のであり、また「生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである」(同)というのが真実であった。つまり、日本人が持つ形式というものは、人間に対する鋭い洞察の上に成り立っているものなのであった。

安吾はこのような事情は天皇制にも当てはまると言う。

日本人のごとく権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚において彼らはその必要を感じるよりもみずからの居る現実を疑ぐることがなかったのだ。(略)要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、(略)天皇制自体は真理ではなく、また自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察において軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。(95頁)

このように形式の存在意義を鋭く見抜いた上で、それでも形式は「虚しい幻影」(99頁)にすぎず、「人間の真実の美しさではない」(100頁)と安吾は言い切る。では真の美しさとは何か。安吾にとってそれは、必要のみによって生み出されるものでなくてはならなかった。

美は、特に美を意識してなされたところからは生まれてこない。(略)一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめたところの独自の形態が、美を生むのだ。(35頁)

どれほど大義名分を掲げようとも、人間は堕落から逃げることはできない。

徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ、また地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音(あしおと)、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫のごとき虚しい幻影にすぎないことを見いださずにはいられない。(99頁)

ではどうするか。

生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。(100頁)

特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかもしれない。(99頁)

人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。(略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(101〜102頁)

こうして「堕落」を唱えるのも、それが必要であるからなのだ。

堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗ごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ、血を流し、毒にまみれよ。まず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落として、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。(110頁)

堕落することを恐れる必要もないし、堕落を偽善の仮面で覆い隠すこともなんら解決に導きはしない。政治や制度による表面的な救済策によっては、人間としての進歩(安吾によれば、進歩こそが文化の本質である(104頁))を遂げることはついにできない。

生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。(114頁)

これは決してシニシズムから来る言ではない。進歩に対する確たる信念に基づいて、堕落を説いている。堕落とは忌み嫌うべき、もしくは世間の目から覆い隠すべき、恥ずべきものではなく、変化し続ける世界に生きる存在として、人間は本来的に堕落するのであり、さらにそこから何とかして這い上がろうとする姿勢こそが真の美を生み出すと言う。これが究極のオプティミズムでなくて何であろうか。「必要」に基づく人間の生こそが最も美しいと断言する安吾の思想は、人間の潜在力への絶対的な信頼なくしては生まれ得ないであろう。

日本では美しいものは風景で、庭などに愛情を傾けるのであるが、人間のノルマルの欲求が歪められ、人間的であるよりも諦観自体がすでに第二の本性と化した日本人が、人間自体の美よりも風景に愛情を托したのは当然であったに相違ない。しかし、人間にとって、人間以上に美しいものがあるはずはない。(182頁)

自分はここまで人間そのものの中に美を見い出せるほど人間的にまだ成熟してはいないが、いつかこのような地に足のついたオプティミズムを著者と共有できるようになるのであろうか。