ヘルマン・ヘッセ『デミアン』(高橋健二訳)(新潮文庫、1951年)書評
「ドイツのノーベル賞受賞作家ヘルマン・ヘッセの1919年、42歳の時の作品」(Amazon.co.jpによるレビューより)。10歳の少年シンクレールは、家族や世間に代表される秩序と美徳の世界から抜け出して、もう半分の世界、すなわち「そうぞうしい、どぎつい、暗い暴力的ないろいろなもの」(11頁)がある世界に憧れた。その暗い世界を直視することで、彼は逃れがたい孤独に陥るが、そこから逃げて集団に埋没することなく、自己の内面を徹底的に見つめていく。安易に多数派の考えに与するのをよしとしない人ならば、必ずやシンクレールの自己内省に共感を覚えるはずである。
もちろん、自己の省察に伴う孤独に耐えられない人の方が多い。
野心のない人でも、一生に一度や二度、敬虔とか感謝とかいう美徳と衝突することは免れない。だれでも一度は父や先生から自分を隔てる歩みを踏み出さねばならない。だれでも孤独のつらさをいかほどか感じなければならない。もっともたいていの人はそれに耐えることができないで、すぐにまたこそこそとはいこんで行くのだが。(162頁)
そのような人が集まって群れを作れば、それは必然的に多数派となる。孤独に向き合い、不安の源をどこまでも追究できる人は間違いなく少数派である。
いま存在している団体は衆愚人の団体にすぎない。人々はたがいに不安を持ちあっているので、たがいに逃げ、寄りあっている―紳士たち同士、労働者たち同士、学者たち同士!なぜ彼らは不安を持っているのか。人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。彼らは自分自身の立場を守る決意を表明したことがないから、不安を持つのだ。自分自身の内部の未知なものに対して不安を持つ人間たちばかりの団体だ!」(178頁)
本書は一少年の精神的な成長の物語にとどまらず、痛烈な現代文明批判を包含している。ヘッセの時代において、社会的・宗教的倫理に対して批判を行うということがどういうことを意味するかは想像を絶するものがある。『デミアン』を単なる思春期の成長物語で済ましてしまい、現代にも通ずる文明批判の矢面に自ら進んで立つことがなければ、ヘッセが命懸けで訴えたことの半面しか読者に伝わらなかったことになるだろう。