ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(岩波文庫、1958年)書評

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

本書を読んですぐに思いついた本がある。長編ドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞したマイケル・ムーアの映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも登場している、バリー・グラスナー(Barry Glassner)のThe Culture of Fearという本だ。まだ読んではいないが、映画中の紹介によると、根拠のない恐怖をマスメディアなどを通して植え付けられたアメリカ人は、実際には存在すらしない恐怖に怯え、パニックに陥って悲劇を生み出していることを、社会学的に検証しているという。具体的には、凶悪犯罪がほとんど起きていない平和な田舎の住民が、マスメディアで凶悪犯罪件数の急増などを聞かされて銃を購入、その銃を誤射した子供たちが死んだり他の子供を殺したりしてしまっている。あるいは強迫観念から、人違いで他人を射殺してしまったりといった事故が頻発する。日本人は、高校生の服部君射殺事件のことを鮮明に覚えているだろう。

このコンラッドの『闇の奥』に描かれている白人たちも、まさしくこうした脅迫観念にとりつかれ、現地人や現地の慣習に対する無知・無理解のせいで、ちょっとしたことでパニックを引き起こしてしまう。先日読んだヴェルヌの『海底二万海里』に出てくる現地人(パプア人)も、同様に自分たちを襲ってくる獣のような存在として描かれていた。このような白人の脅迫観念は、しばしば現地人の大量殺戮とその正当化の論理に通じる。この『闇の奥』がコッポラ監督の大作『地獄の黙示録』の原案になったと言われるゆえんである。冷戦期、アメリカは共産主義の「ドミノ理論」に対する恐怖感のあまり、アジアの小国を侵略した。また、アメリカの建国初期には、インディアンの襲撃を恐れた入植者たちが、インディアンをほぼ絶滅に追いやった。ここに通底しているのは、未知のものに対する怯えであり、それを取り除き秩序を作り出す自らの力に対する過信であった。本書に登場する白人たちも、自身の体に沁み付いている「恐怖の文化」のために、自らの人間性を破滅させてしまった哀れな人間たちであった。