「人間性という歪んだ材木からは、真直ぐなものはかつて何も作られなかった」
(下線はすべて引用者)
「アマゾンの最深部で一万年以上、独自の文化・風習を守り続けているヤノマミ族。文化人類学の教科書でもしばしば取り上げられる部族だが、NHKはブラジル政府、および部族の長老七名との一〇年近い交渉の末、TV局として初めて長期(のべ一五〇日間)の同居を許され、二〇〇九年に『ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる』として放送、各界から高い評価を得た。
番組は、一四歳の少女が、部族の伝統に従って森のなかで出産したばかりの赤子を「人間」としてではなく「精霊」として天上に送ることを決意し、赤子を白蟻の巣のなかに入れた後、肉を食べ尽くす白蟻ごと焼いて葬るという、衝撃的なシーンから始まる。
ヤノマミ族の少女が行っているのは「人殺し」だろうか。いつから人は「人間」となるのだろうか。人権や生命をめぐる、ごく基本的な認識でさえ私たちとは共有されていない。こうした差異や多様性を私たちはどこまで受け入れるべきだろうか。そして、受け入れることができるのだろうか。「ヤノマミ」とは「人間」を意味し、取材班が「ナプ(ヤノマミ以外=“人間以下”)」と称されていたのが印象的だった」(p.128)
「彼らがアマゾンの奥地にいる限り、あるいはごく少数の集団である限りにおいて、私たちは「寛容」の側にいられるかもしれない。しかし、すぐ近くに、大規模に居住していたとしたらどうだろうか。どこまで「文化の多様性」を尊重する立場を貫けるだろうか。こうした視点や問題点を提起することで、文化人類学は安易な文化国際主義や普遍主義の傲慢を諫める役目を担ってきた」(pp.128-129)
「イギリスの思想家アイザイア・バーリンは、その有名な講演「理想の追求」(一九八八年)において、絶対的な理念のあくなき追求がもたらす陥穽に対して警鐘を鳴らした。保守であれ、リベラルであれ、極端なイデオロギーのもとに「理想の追求」を急ぐときほど、大いなる災いがもたらされることは、歴史の証明するところでもある。バーリンはカントの「人間性という歪んだ材木からは、真直ぐなものはかつて何も作られなかった」という言葉を愛好したが、文化国際主義や普遍主義を誇示する誘惑に駆られたときほど、かえって自らを批判できる「器の大きさ」や「自省力」、すなわちメタ・ソフト・パワーが求められるのかもしれない」(p.130)