福田和也『悪の対話術』(講談社現代新書、2000年)書評

悪の対話術 (講談社現代新書)

悪の対話術 (講談社現代新書)

対話というものに漠然とではあるが関心を持つとともに、なぜ対話とは興奮と喜びに満ちたものとなる場合もあれば逆に苦痛に満ちた、早く終わらせたいと感じるようなものになる場合もあるのだろうかと疑問に思っていた自分は、この本の中になんらかのヒントを見つけることができるのではないかと考えた。

読み終わってみてではその目的は達せられたかと言うと、実はそうとも言い切れない。確かに福田の言う「悪」としての対話には共感できる点が多々あったが、書かれていることのほとんどが、普段自分が、活字として表現してはいないものの頭の中で漠然と考えていたことと同じであったからだ。一般向けの書ということもあるのだろうが、対話の相手としての他者が紋切り型であるようにも感じた。

以上のような不満もあったものの、しかしながら全体としては普段自分が感覚的に考えていることに合致する内容であった。その感覚的なことをより鮮明なものにするために、福田が薦めるとおり自分の考えを少し客観視してみようと思う。

まずは「悪口の効用と陥穽」についてである。福田は悪口とは基本的に楽しいものであるが、その喜びを客観視できなければ、つまりその悪口が相手にどのように受け取られているのかを常に意識できなければ、悪口の奴隷になると言っている。(37頁)さらに悪口と攻撃性は一致しないとも言っている。(42頁)自分が悪口を言っている状況を客観視できずに自分の悪口に陶酔してしまうと、それは次第に攻撃性を帯び、本来楽しいはずのものが不愉快なものになるということだろう。

攻撃性が生み出す状況認識能力の低下は、礼儀を尊重しない人間、やたらと横柄な態度を取る人間にも当てはまる。「丁寧な人ほど、対人関係に意識的であり、抜け目がない」(98頁)とするなら、無礼な人間は自分が置かれている状況も認識できず、またたとえ認識していたとしても一切構わず、むしろ状況に自分を預けてしまっている、状況に甘えてしまっていると言えるだろう。有意義な対話に不可欠である他者との間の緊張関係は攻撃性からは生まれ得ない。攻撃的な言辞は己の評価を下げることにしかならないだろう。

G・ドゥルーズとF・ガタリの共著『千の高原』(邦題:『千のプラトー』)を引用して「社会」と「社交」の対立を説明している箇所にはなるほどと思わせられた。つまり、「『社会』というのは、人間を組織化するとともに機能化していく流れ」であり、「そこでは、人は組織の中での位置によって区別されて、人と人との繋がりは、位置によって決定され、意味づけられる」のに対し、「社交はこうした機能化の動きに逆行するもの」である。社交は「位置や立場と関係のない、社会的な機能の中では出会うはずのない人たちを出会わせ、組織化をすることなく瞬間の発光の中で現実を変えて動かしていく、一種の賭け」(115〜116頁)であるという。技術の進歩にともなって種々の機能化、合理化が進むのはそれはそれで重要なことだが、それによって他方の機能化し得ない「社交」の重要性は低下するどころかますます高まっているという事実を人は見過ごしがちなのだろう。

「観察と刺激」の章では、人間の嫉妬と虚栄心について言及している。嫉妬と虚栄心は人間の基本感情であると福田は言う。そしてそうであるからこそ、それを偽善で覆い隠したり逆に何の恥じらいも戸惑いもなく露骨に表現したりすることは幼稚とみなされる。嫉妬や虚栄心によって自分が突き動かされていることを前提として、それでもなお善をなそうとすることこそ大人の態度である、と。さらに「嫉妬と虚栄心が人間にとって根本的な感情であるとすれば、それらの感覚にたいしていかなる姿勢をとっているか、ということがその人の自分と他者にたいする認識の根本的な部分をなしていることに」なる。(169頁)

読んで一番面白かったのは「焦りと緊張」の章であった。特に著者の若者観は、最近まで同じ年齢層に属していた一世代上の人間だからこそ言えるものだろうと思う。近代の進歩主義的な思想がもたらす若さの過剰な尊重は、例えば資格を取ることで安易に生きる保証を得ようとする若者の風潮を増長している。たとえその資格がどれほど取得困難なものであっても、それによって端的な安心を得ようとするものである限りは逃避にすぎない。

「絶対的な保証を得ようとする心理は、不透明で、予測不能な現実の中に自分が置かれている、ということを見まいとする意識によって構成されているように思え」ると著者は言う。(179頁)そのような風潮に伴う必然的な結果として、若さが失われたあとには諦めが来るのである。若い時にもてはやされすぎたか、それとも若さ以外に自信がないからなのかはわからないが、二十をいくつも出ないうちに自分の人生を限界づけてしまっている若者があまりに多い、と。(183〜184頁)

もちろん筆者は、若いうちにしかできないこと、様々な考えを柔軟に吸収できる若さの価値をわかった上でこう言っているのだろう。しかし進歩史観にとらわれていると現在は過去よりも、未来は現在よりも進歩したものと考え、若い者はそうでない者よりも進歩した未来を生きていくことになると考える。果たしてそんなことが言い切れるだろうか。このような一面的な史観、つまり「若さを失うことが、成熟の獲得でなく単なる衰退である」(183頁)と考えるなら、過去を学ぶ意味もほとんどなくなるだろう。このような見方は筆者の提唱する「悪」としての対話術、すなわち世の中の複雑な状況を前にして、それを過度に単純化したり、偽善で覆い隠したり、無頓着でいたりすることなく、その状況に応じた言葉を生み出すためのきめ細やかな認識を常に持つこととは全く対照的なものであろう。

人間の一生の時間ではどうしようもないほど複雑な世界を相手にして、人はニヒリズムに堕して達観してみせたり、逆に複雑さに慄いてもっともらしい偽善の装いをしてみせたり(これは相手のためにやってあげてることなんだから、など)する必要などないのだ。自らの嫉妬と虚栄心に正面から向き合ってそれにどう対応するのかを各自は決めなくてはならない。その苦痛を通り抜けることでしか、複雑な状況を前にして自分が納得できるような姿勢を構築することなど不可能なのではないだろうか。