福田和也『悪の読書術』(講談社現代新書、2003年)書評

悪の読書術 (講談社現代新書)

悪の読書術 (講談社現代新書)

『悪の対話術』に次いで読む、福田和也「悪」シリーズの1冊である。(『悪の恋愛術』だけはどうしても読む気になれない。)対話編に同じく、「悪」とは、簡潔に言えば、自己の客観視、他者の視点の導入、そしてそれに基づいた戦略的な人間関係の構築を指している。他者にどう見られているのかについての認識を重視しているのだから、畢竟それは虚栄心の積極的評価を意味する。

著者によれば、近年の学生は知的虚栄心が薄れているそうだが、種々の資格をとって箔をつけようとしている若者は虚栄心を持っているとは言えないのだろうか。管見によれば、教養主義的な知的格差の誇示は廃れたが、それとは全く異なった新しい形で知的虚栄心はむしろ生き続けているのではないか。時代によってどのような形で知性を表現するかについての流行は異なるのであって、必ずしも知的虚栄心が薄れているわけではないと思う。

日本では書評を書くことが「副次的な、第二流の仕事」(181頁)と見なされており、それが書評そのものの質の低下を招いているという指摘は、文化の質に関わる重要な警告である。確かに日本語の「書評家」という言葉には、侮蔑的な響きがある。ハウツーものや単なる情報のためだけの本が溢れ、本もまた消費財の一つと見なされがちな現代にあってみれば、読後にもう一度読み返したり、本の内容についてあれこれ考え直してみたりといったことは野暮なことと受け取られるのかも知れない。もしそうだとするなら、著者がいくら「悪の読書術」を説いても、なかなか理解されないのではないだろうか。著者の定義による「悪」に共感を覚えるだけに、本当にそれは残念なことである。