福田和也『余は如何にしてナショナリストとなりし乎』書評

余は如何にしてナショナリストとなりし乎

余は如何にしてナショナリストとなりし乎

福田和也の本は何冊か読んだが、彼の本は何か片手間で書いたような、著作としての重々しさに欠けるようなものが多いように感じてきた。だが今回のこの本は、ナショナリストを自称するだけあって、ナショナリズムについてかなり深く立ち入った説明をしている。彼の「志操」を理解するには読まなくてはならない本だろう。

ナショナリズムは「国民主義」、「民族主義」、「国家主義」、「国粋主義」などと一般に訳されることが多いが、著者によると、これらの訳語はナショナリズムの一部を言い表しているに過ぎない。また、民族主義国民主義に対する反発から生じたもの、国粋主義国家主義に対する反発から生じたものとされている。ここには、近代的・合理的・客観的なものと、伝統的・非合理的・主観的なものの対立が背景にある。

ではナショナリズムを如何様に定義するか。

ナショナリズムとは、思想とか、立場とか信条というものではないのです。具体的な思想のあり方に先立つ、広く深層にかかわるもの。それがナショナリズムなのです。それは私に云わせれば人間としての生き方の弁えにほかなりません。ですから、ナショナリスト本来の立場とか、イデオロギーというものはないのだと思います。右のナショナリストがおり、左のナショナリストもいるのです。千差万別の価値観をもつ者たちがいていいのです。(28頁)

つまり、ナショナリズムとは、いかなるイデオロギーをもつにせよ、自らの出発点となるものであり、どれほど視野が外に開かれようとも、何度も立ち返って確認すべき「故郷」となるものである。福田の主張によれば、地に足のついた、世界のどの国からも耳を傾けてもらえるような議論をするためには、まず人はナショナリズムの標榜から出発せざるを得ないのであり、このナショナリズムとは左右のイデオロギーとは何の関わりもなく存在し得るものなのである。しかし、敗戦後の日本では、このナショナリズムは徹底的に拒否されまたは無視されてきた。「そういう地に足のつかないカッコよさを、戦後の日本人はずっと尊重してきた」(116頁)。

このような、根無し草的存在に価値を置く知的ディレッタンティズムは、「価値の根本である自分自身への、その自らが生まれ形成されてきた風土と歴史への視線」(216頁)が欠如しており、「国に包含されているという意識」(108頁)を失いまたは忘却してしまうのである。

「くに」という一体性を足場にすることを説く保守派の議論はお馴染みであるが、福田が定義するように、ナショナリズムが「『くに』にたいする超世代的責任感に由来する実践的倫理」(35頁)であるとするなら、その「くに」から徹底的に排除されてきた少数民族はどこに責任感を感じ、どう倫理を実践したらよいのかという同様にお馴染みの批判に、本書はきちんと答えていないように思う。また、日本人の一体性を証明するものの例として言語を挙げる(53頁)というのは、カルチュラル・スタディーズの研究者が聞けば驚き呆れることではないのだろうか。

ただ、左右の色分けで論じられてきた浅薄なナショナリズム論にうんざりさせられてきた向きには、本書は一種の清涼剤として機能するかも知れない。