西尾幹二編『新しい歴史教科書「つくる会」の主張』書評
- 作者: 西尾幹二
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2001/06
- メディア: 単行本
- クリック: 8回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
まずなぜ今回この本を読んだかと言うと、日本における保守的な運動の特徴をまとめるための材料が本書にいくつかあるかも知れないと考えたからだ。実際には内容は歴史上の具体的な事柄について述べられており、そこから保守的運動としての特徴を抽出することは少し難しい。ただ、わずかながら、一般化できそうな論点があった。
①「当時の状況に身を置いて」か「現在の価値観に立って」か
日本の近代がいかに困難な選択の連続であったかを、当時の状況に即して、当時の日本人の身になって子どもたちに考えてもらう。現代風の反戦平和主義を遠い歴史に当てはめることは、歴史の教育にならない。(西尾幹二、4頁)
このような主張は、アメリカにおいて第二次世界大戦やベトナム戦争などを倫理的な観点から再解釈しようとする動きに対して、在郷軍人会が述べた反論と全く同じものである。今の価値観から過去を裁くのは愚かなことである、と。
しかし、実際のところ、完全に当時の状況に身を置いて考える、つまり現在の価値観から完全に自由になって歴史を論じるということは不可能である。歴史解釈というものは、国によってまた時代によって大きく変化するものであり、「現在」という時間に拘束され、かつ「日本」という国に住んでいる我々が、過去の状況に身を置くということが、歴史解釈の客観性を高めるとは必ずしも言えないのである。さらに、歴史の裁断というものは、往々にして、重要な決断を下した政治家や軍のリーダーが当時どのような意図を持っていたかとは関係なしに下されるものである。
②歴史解釈の多様性はどこまで認められるべきか
一つの事実をめぐる歴史解釈はさまざまであり、多様な歴史解釈を許容する広い座標軸が必要であり、すべて相手国側の主張する論理や歴史観によって解釈しない限り誤りであるという枠や、被害者対加害者、正義と不正義、勝者と敗者というような善玉・悪玉式の単純な二分法論理に基づく枠組みを政治的、外交的に当てはめようとすることは、歴史解釈の自由への拘束であり、不当な政治介入であるといわざるをえない。(高橋史朗、48頁)
これは①と重なる点であるが、歴史解釈にどこまで普遍性を付与できるかという問題である。この点に関して「つくる会」のメンバーたちは否定的であり、まして歴史解釈に政治的な善悪二元論を持ち込んではいけないという点で意見が一致している。もし普遍的な歴史解釈があり得ないとすれば、無理に共通点を探そうとして妥協するよりも、各々の解釈を尊重することの方が重要だという結論になる。歴史認識をめぐる対立は解消不可能であるから、この対立の存在を認めながらも暴発しないように管理すべきだと考えるか、それとも歴史認識の和解はあるレベルまでは可能だと考えるのか。これはひょっとしたら永久に決着のつかない問いなのかも知れない。