小林よしのり『戦争論3』書評

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論〈3〉

ネオコンの論文、さらにはホッブズやグロティウスまで読んで「大義のないイラク戦争」への批判が展開されており、一作目の頃に比べれば論旨全体に落ち着きが見られるようになった。著者の説く「マナーとしての反米」は、少なくとも本書ではかなり説得力を持っているのではないか。

しかしそれにしても、本書で描かれる白人の表情のなんと恐ろしいことか。著者が白人の有色人種に対する差別や、中国・韓国の歴史教科書における日本の描かれ方に怒るのと同様に、本書を見た白人は「なんと一方的な」と怒り出すのもやむを得ないのではないだろうか。相互にデーモナイズ(悪魔化)する悪循環はどこかで断ち切られねばならない。

ネオコンが「元・民主党の急進的自由主義者」というのはその通りである。ただ、その脅威は一般に強調され過ぎている。もともと冷遇されていたグループが9・11テロによって話しに耳を傾けてもらえるようになり、政策に対する影響力が一時的に強まったのであり、それが今後のアメリカの対外政策を長期的に規定するかは疑問である。ネオコンが国際問題に引きずり出していると言われるキリスト教原理主義者たちは、本来孤立主義的な対外政策を志向しており、遠くない将来に本来の立場へ戻る可能性がかなり高い。(ちなみにラムズフェルドやチェイニーはネオコンではない。)

また前作までと同様、本書でも「公」について言及されている。

ほとんど国ごとに「公」が異なっている。我々の手に負える範囲の「公」は目一杯、拡げても同じ約束ごと…言語・慣習・文化が共有できる「国」までだろう。その意味で「国」=「公」とほぼ規定していいのだ。(154頁)

このような主張は、おそらく島国である日本に例外的にあてはまるものであると思う。国境が陸続きになっているほとんどの国々においては、「国」=「公」と規定できるほど生易しい歴史的・地理的条件は存在しなかった。ヨーロッパしかり、南米しかり、アフリカしかりである。否応なしに隣国の「公」が入り込んで、より複雑なプロセスを経て言語・慣習・文化が形成された。「脈々と受け継がれてきた伝統」は、決して明白なものではなかったはずである。