中島義道『働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか』書評

これは中島義道の本すべてに言い得ることだが、彼の本は読者を限定する。そこで想定されている読者とは、この世の不条理をとことんまで思い詰めている人、周囲の一般人にとってはどうでもよいこと、あるいは考えても仕方のないことをいつまでも悩み続けている人、である。そして彼の著作に通底しているのは、「どうせみんな死ぬのだから」という身も蓋もない人間観なのである。

彼の人間観に接して強い反発を感じる人は大勢いるはずである。恐らくそれは、自分が必死で取り組んでいること(仕事など)に対して、「そんなことは全て、死という最大の不条理を覆い隠すための欺瞞でしかない」と言われてしまうからである。あるいは彼らは中島の人間観を鼻で笑うかも知れない。所詮は人生の敗北者の戯言だと。しかし多分彼の著作が結構売れているだろうことから推察して、彼の人間観に共感を覚える人、周りの人に相談できずに苦しんでいる人もまた大勢いるのだろうと思う。そうでない人は、「世の中にはこのようなことを考えている人もいるのだ」と冷めた目で見ることができるのでなければ、彼の著作を読まない方がいいかも知れない。そのような人にとって、彼の著作は決して読後感のいいものではないからだ。

本書は、仕事に就く気になれない人、自分のやりたい仕事を探しあぐねている人、今の仕事に何の希望も見出せずにいる人、数十年間一生懸命やってきた仕事に虚しさを感じている人、との対話という形式をとっている。彼らの悩みは、「気にすることはないよ」とか「そのうちいい方向に向かうよ」とか、毒にも薬にもならない慰めでは決して解消されることのないものである。各々の真剣な悩みに対して、もっともらしい答えで納得させたり、嬉しいことや楽しいことによって忘れさせるようなことを著者は最も嫌う。人はそれぞれ悩みに立ち向かわなくてはならない。これは著者が他の本で言っていることだが、「いかにささいなことであっても、その人が真剣に悩んでいるのなら、それは立派な悩み」(『怒る技術』16〜17頁)なのである。

職業にまつわる不条理、例えば誠実に努力をしている自分が職につけない一方で、たいして努力もせず、ずるいやり方で職を得ている人がいるという不条理について悩む場合、その不条理を声高に叫ぶだけならば、それは道徳的な高みに安住しようとする甘えであると著者は言い切る。そのような不条理は世の中においてたびたび起こるものであることを認めた上で、決して予測することのできないその不条理を味わい尽くすことを彼は勧めるのである。世界は偶然の要素に満ちあふれているものであり、努力すれば必ず報われ、怠惰は必ず不幸を招くような単純明快な世界よりも、偶然に左右される現実の世界の方がはるかに魅力的なものだからである。

確かに、四六時中世の不条理を嘆きそして憤ってばかりいる人よりも、その不条理を味わい、むしろ不条理を利用してたくましく生きるぐらいの人の方が、人間的な魅力に勝っているように思う。