ラ・サール石井『ラ・サール石井の大教育論』書評

パラパラめくって何やら面白いことが書いてありそうだったので、つい古本屋で購入。しかし意外や意外、この人なかなかの切れ者である。書いてある内容自体は全然たいしたことないのだが、この人かなり文章がうまい。普段から問題意識をもって読書してるのだろうということがわかる。「こんな本いちいち読んでる暇なんかねーよ」という方々のために、例によってテーマ別に引用をしてみましょう。話は飛び飛びだが、一つ一つの文章が名言になっている。


「勉強」の暗いイメージについて

「勉強」は少しも暗いものではない。つらく苦しいものでもない。むしろ明るく楽しいものなのだ。たしかに共同作業ではないだけに地味ではある。また面白くなってくるまでに少しかったるい時期がある。でもそこを乗り切れば必ず「けっこう面白いなあ」という境地になるのだ。(中略)であるから「教育」の仕事は、この喜びを教えてやることにあるのである。つまり「勉強」や「自分を高める」ことの喜びや楽しみを教え、そのとっかかりをつくってやることにある。そのためにも教育は、学校は、勉強は、「面白そう」でなければダメなのである。(26頁)


初対面の相手に攻撃的な態度でしか接することのできない若者について

他人との交渉の第一歩が、すでに交渉を決裂させるための攻撃的なパターンである。ここに向上心などは何もない。あるのは、ただ「バカヤロー、コノヤロー」としてしか他人と接触できないむなしさである。何も吸収できないのであるから当然成長はない。(中略)まず人を攻撃することによって自分を守る人間である。結局は弱いのである。その弱さのために自分のカラにとじこもるか、あるいは他人を攻撃するか、どちらかのちがいこそあれ、それはアルマジロハリネズミほどのちがいでしかない。(87〜88頁)

わたくしはここでガチンコ・ファイトクラブの若者たちを連想してしまう…。


子供を緊張させる親・教師について

極端に自分の内側へ向いてしまったり、過激に他人に干渉したり、とかく片寄ってしまうのは、「何かが怖い」からである。子供達は、何か知らず恐れているのである。人知れず「緊張」してしまっているのである。この「緊張」をほぐし、「怖くないんだ、さぁ裸になりなさい」と教えてやる存在、それが、本来、親と教師であるはずである。しかるに、残念ながらこの二つが、今もっとも子供を緊張させている。(99〜100頁)


「食わせてもらってるくせに」と言う親の卑怯

子供にとって「食わせてもらっている」ということは精神的なハンデである。「食わせてもらってあたりまえ」と一〇〇%思っているわけではないが、だからといって親のいうことをハイハイと何でも聞くわけにはいかない。親に対し子供がわけのわからないことをいう分だけ、親も本当は、気づかずに子供に理不尽なことをいっているからである。子供は「親がかり」という精神的ハンデを背負った未完成な人間である。だから、親はこの「親がかり」をたてにとって、自分の意見を通そうとするのは卑怯である。(118頁)

親は「親」というイメージに過保護に育てられた「子供」である。そして親という名の「子供」が、子供を責める。あるいは束縛するという自己矛盾を、子供は敏感にかぎとってしまう。そこでその盲点を子供が無意識に責めた時、親は「親がかりのくせに」と、相手のハンデを責める悪役レスラーのような汚ない攻撃にでるわけである。本当は「親」だからといって許されることなど何もない。むしろ子供よりもイバラの道を歩かなくてはいけないのだ。(119頁)


男女の愛と親子の愛

一人の男を好きになり、その人のことを考えるといてもたってもいられない。こういう状態で子供に接するのはよそう。男女の愛は結果的に結末を求める愛である。なんらかの形で答えがでなければいけないのである。しかし親子の愛はちがう。答えはとっくにでている。親子は死ぬまで親子である。だから結果というものがない。ところが、勘違いした母親達は、普通の恋愛のように答えを求めようとする。子が親を愛する証しを求めようとするのである。しかし、前にもいったように、子が親を愛する証しなどはない。それは形になって返ってくるものではないのである。(121〜122頁)


子供たちの歪んだセックス観について

とかくセックスというものを「ものすごい」ものと考えすぎているのではなかろうか。そこらへんの認識が昔からずっと変わっていないから、この何でも発達してきた現代でもセックスをとりまく状況がちっとも変わっていないのではないだろうか。(中略)その昔「ものすごく汚ない罪悪なもの」だったセックスは「ものすごく気持ちいいもの」に変わった。しかしそのものすごさはそのままだ。(143・147頁)


自殺した岡田有希子の三つの不幸

岡田有希子の不幸は三つあった。一つは、悩みを両親や兄弟、肉親に相談できなかったこと。二つ目は、思いを打ち明けるべき友人や知人がいなかったこと。そして三つ目は、世界中のどこかに、それを読めば自殺から救われたかもしれなかった一冊の本があったかもしれないのに、それにめぐりあわなかったことである。(156頁)


差別について

「差別」がなくなるというのはまったく妄想にすぎない。なぜなら、それは「欲望」と同じく、人間の生きざまの根本をなすことであり、また人間が生きていくエネルギーの一部であるからだ。(中略)勘違いしないでいただきたい。私は「差別」を肯定しているのではない。私はまずそれ以前の「差」というものを肯定しているのである。(中略)「差」は確実にある。本当に差別をなくそうとするのなら、この必ずある「差」を隠さず、「差」があるということを教えたうえで、なおかつ、弱者への、差のついた者への「やさしさ」を教えることが必要なのだと思う。(中略)確実にある人間の「差」を埋めようとする努力、そこに人間として生きていく「エネルギー」が生まれるのである。(158・159・161頁)


非行と群集心理

私にはその頃からひとつの鉄則があった。それは「一人で行動していれば、絶対に非行に走るものではない」という考え方である。群集心理や「オレもできる」式の向こうみずで、思っていたよりも悪いことをしてしまうのが非行のもとであり、一人でいればそういうこともないと考えたのである。(173頁)


「人間の過剰」に苦しむ日本人

我々は空間的にも時間的にもないゆとりからくるストレスを「お金」にかえて、なんとか満足してくらしている。自分が自分の時間をさいて、人よりも働いて金もうけて何が悪いと考えている。すべては人間の過剰からきているのである。(196頁)

日本人は他人のことをよく気にする。いやそれはそういう性格というよりも、気にせざるを得ないほど他人がまわりにいるということである。また、まわりから見られている。いつのまにか我々は他人の目を気にせずにはいられなくなってしまったのである。(197頁)


「三年間男女交際禁止」という校則のある学校について

小学生には小学生の恋愛が、中学生には中学生の恋愛があるはずであり、そういった「恋愛テクニック傾向と対策、基礎編」とでもいうべき経験を積んだほうがかえって将来問題が起きない。あるいは後悔したりすることのない恋愛ができるというものだ。それをいきなり「三年間男女交際禁止」というのでは、人間として精神的にいびつになってしまう。まったく無菌状態のままで卒業させて、恋愛に抵抗力のないまま社会にほうり出し、あとはご自由に、どうなっても知らないよ、というのではあまりにも無責任すぎるではないか。(212頁)


石原慎太郎の「本来教育というものは管理であって…」発言に対する怒り

「教育は本来管理である」という言葉のなかに、自分は管理する側に立っているという、うさんくさいにおいを感じとるのは私だけであろうか。(222頁)