吉田昭彦『日本人の心 環境道のススメ』書評

sunchan20042004-12-23

日本人の心 環境道のススメ

日本人の心 環境道のススメ

内容は環境問題を広く扱っており、大きく分けて第一章の人口問題、第二章の食糧問題、第三章のエネルギー問題、第四章の環境問題(ゴミ、オゾン層)となっている。これらの問題は独立して存在しているものではなく、全てが密接に関わっており、どの問題も、人間の発展の仕方から派生してきた問題である。

地球の人口は、今のスピードでいけば2050年には100億を超えると言われている。さらに、数が増えるだけではなく、東アジアや東南アジア諸国を中心に発展途上国が今後も経済発展を遂げることを考えれば、食糧、とりわけ肉に対する需要は大きく増える。経済成長が食肉需要の増大を招くことは、戦後日本や現在の中国の事例からも証明されている。また、肉の需要が増すということは、豚や牛の飼料となる穀類(間接消費)に対する需要も激増する。

現在、世界の穀物在庫は毎年史上最低を記録しているという。その最大の原因は中国が穀物の大量輸出国から大量輸入国に転じたことであった。同時に中国は、石油においても輸出国から輸入国へと転じた。これには中国の急速な経済成長が密接に関わっている。この問題はワールド・ウォッチ研究所のレスター・ブラウンが「誰が中国を養うのか」と題する論文を発表した時にマスコミで大々的に取り上げられた。

一方、日本は小麦や大豆など穀類のほとんどを輸入に頼っている。またたとえ世界の穀物在庫が不足して価格が暴騰しても、それを買うだけの資力が日本にはあるため、日本の「大量輸入は不足時には市場に大きな負荷を与える。」(107頁)世界的な不足をよそに日本はなんら不自由することなく大量輸入で自国の需要を賄うことができてきたわけで、中国の大量輸入が在庫の一層の不足を招いていることを嘆く資格は日本にはない。また、不足しているなら増産すればよいという単純な解決策が出てくるだろうが、現在の耕作地は拡大・増産ともに限界にきており、今後あまり耕作地に適さない土地をも切り開いて農耕地にするとなると、自然に対する負荷はとてつもないものとなる。今後の技術の発展によって土壌改良をすることは可能かも知れないが、人口の増加と経済成長から来る需要の増加には今のところとても追いつかない。

食糧に対する需要の激増が国際関係の緊張を招くことになるのは必至で、エネルギー需要の増加と並んで、食糧は安全保障問題として扱う必要が出てくる。また需要に合わせて増産するとなると、環境のさらなる破壊は避けられないので、人口や食糧の問題は環境問題とも密接にリンクしている。

次にエネルギー問題である。近年の電化製品の普及(特にクーラーや暖房器具)により、電力需要が大きく増加しており、とりわけ猛暑の年には電力が不足するという危機的な状態に陥っている。

九四年の猛暑到来時、東京電力管内の需要が最大に達した八月初旬には、需要に対して東京電力一社では供給が間に合わず、他社からの融通によって不足量を補った。一方、猛暑によりクーラーの販売台数は急増した。九四年八月には柏崎刈羽原子力発電所四号機が完成し、供給量として一一〇万kw時が増強され、九五年の夏はかろうじて乗り切ることができた。(172頁)

こうした現実を受け止める時、たびたび原発の安全性が問題となり、建設地の周辺住民が反対運動を起こしている現状は、少なくともエネルギー問題の解決という目標に対しては暗い影を投げかけるものである。これまで主要な役割を果たしてきた火力発電は、環境への負荷の大きさが指摘されているし、水力や風力による発電は、クリーンではあってもそれだけでは需要にはとても追いつかない。そうなるとやはり原子力発電しかないのである。安全管理技術やプルトニウムの利用技術を始めとして、原発にはまだまだ研究開発が必要であり、問題があるからといって全てを中止してしまうのは間違っていると著者も言っている。

オゾン層とは、生物が気の遠くなるような長い年月をかけて作り出してきたものであることを知った。

地球上における生物の誕生は三五億年以上昔に遡る。しかし、その九〇%以上は海中での生活であった。生物が上陸可能となったのは四億年前頃であり、上陸できなかった原因は大気中の紫外線が強かったからである。生物は自らが出した酸素が大気中に十分含まれるまで、海中での生活を余儀なくされた。酸素が大気中に十分含まれるようになると、その酸素は上層で太陽からの強い紫外線によりオゾン層を形成した。オゾン層が形成される過程で強い紫外線は吸収され、有害となる紫外線が減少するにつれて、生物は陸上での生活が可能となった。(183頁)

オゾン層が消えてしまえば、人間は再び海中へと戻るのだろうか。

日本のゴミ事情は少し特殊で、「日々の生活を通して排出される一般廃棄物より、産業廃棄物の方がより多く発生しやすい体質となっている。」(195頁)ついこの間も、産廃を東南アジアの国へ持ち出そうとして、バーゼル条約違反で逮捕された業者がいた。一般ゴミの回収は各地方自治体が責任を持つことになっているが、産廃の方は廃棄物を発生させた業者に処理の責任があるため、そこに不法投棄や不正な処理が起こる余地が出てくる。

さらに、日本は伝統的に海洋投棄を行ってきた国であり、産廃の処理がその延長線上で進められるならば、水質汚染や生態系の破壊を回復不可能なレベルまで行いかねなくなる。

以上の問題、すなわち、人口、食糧、エネルギー、環境の問題を論じる時、これまでの人間のライフスタイルを見直すことを避けるわけにはいかない。シンプル・ライフを志すべきだと言うのは簡単だが、ではそれはどんな生活なのかと問われると、千差万別の答えが返ってくるかも知れない。著者は終章で、千利休の「わび茶」の精神を称えた上で、信念と行動が並存する「環境道」を提唱しているが、自分にはあまり意味のある概念だとは思えなかった。やっぱり「これこそが21世紀のライフスタイルだ」と揚言することはできない。多様性が重んじられる現代では尚更である。ただ、本書で著者が注意を喚起した点については傾聴すべきであると思うし、予想以上に危機が迫っているという認識を各自が持っていれば、必然と個々のライフスタイルにも変化が生じるはずだと思う。