小谷野敦『軟弱者の言い分』(晶文社、2001年)書評
- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2001/03
- メディア: 単行本
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①流行(ファッション)。ある中年男性が書いた夕刊記事で、茶髪やピアスなど現代の若者のファッションには眉をひそめたくなるようなものもあるが、自分達が若い頃も「学校の規律に反発、自己表現を意地になってしたもの」(126頁)だ、「ガミガミ言うのもなんだかおかしな話では」(同)とあったそうだ。著者は「むっ」とした。「茶髪やピアスが『自己表現』だというのは、ちょっと考えればおかしな話であり、(略)『ファッション』になった時、もはやそれは『制服』の一種になるのであり、『自己表現』だというのは固定観念である」(127頁)という鷲田清一の言葉(『ひとはなぜ服を着るのか』)を引用して批判する。
②「正しい方法を守っていれば健康でいられる。」(134頁)まず著者は、前掲の鷲田の本を再度引用する。「20世紀末の健康モラリストたちは、20世紀初頭に禁酒運動家たちが、酒飲みの移民や労働者たちを批判し汚名をきせたのと同じように、肥満者や運動不足の人たちに対する偏見や差別を助長しているのである。」(同)同様に嫌煙家のヒステリックな反応に対しても、著者はどこか胡散臭さを感じている。この「健康管理イデオロギー」が日本にも徐々に浸透しつつあることを小谷野は憂慮している。
③「価値観の多様化」。「引きこもり」の果てに自殺した女性の父親が言う以下の言葉に、著者は大きくうなずく。「いま、価値観の多様化とか言うけれど、全然、そうなってない。スピーディーに、ネアカで……。その逆の子は、生きられないじゃないですか」(136頁、『引きこもる若者たち』91〜92頁)そこでは「元気な人間」「丈夫な人間」の説く「多様化、多様性」の欺瞞が暴かれている。「それは『元気な奴』のための多様化であり、『新しい多様性』のための言葉として使われていて、古い多様性は認めようとしないからだ。」(同)
④「仲間が多い人の文章」。学界では否定されているにもかかわらず、世間ではまかり通っている説というものには、このパターンが多い。
さて、アカデミズムの世界で生きようとする自分にとって、見過ごすことのできない指摘もいくつかあった。
小谷野は、立川談志が好きな理由は、自分の弟子が既存の枠組みを「ぶっ壊しているのを奨励している」(171頁)からだと言う。「おそらく、私が談志師匠を尊敬してしまうのは、こういうところなのだ。それは私が学者の世界に身を置いていて、自分と同じような研究を弟子にやらせようとする大家の姿にうんざりしているからだと思う。それでは縮小再生産にしかならないことが、なぜ分からないのか。本物の大家なら、『俺と同じことをやるな』と弟子に言うべきなのだ。落語の世界も学問の世界も基本構造は同じである。弟子が自分の拵えた枠からはみ出そうとするのを抑え込むような師匠の許では、その師匠の小型版がたくさんできるだけである。」(同)
さらに、現代における学問全般に関わる以下のような指摘もある。
何らかの説を打ち出した本より、これまでの説を紹介した本の方が面白いというのは、実は『学問』が終焉を迎えつつあることの証拠なのではあるまいか。(260頁)
学界を揺るがすような革新的な説よりも、「理論史」なり「学史」なりを手堅くまとめたテキスト的な本の方が売れているという状況は、その学問が普及していることの証明と言うよりは、小谷野の言うように「学問は終わったのでは」という問題提起の方がより説得力があるように感じられる。
最後に一言。エッセイ集の書評というのは、書きにくいことが分かった。