橋爪大三郎『はじめての構造主義』書評

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 橋爪大三郎の親切で簡潔な説明のおかげで、構造主義のイメージはなんとなくつかめた。しかしもっと簡潔に言って、要は構造主義とは、分野横断的・文化横断的に共通点を探すということではないか。全く異なる表層に惑わされることなく、また各主体の異なる視点にも関わらず、不変の目に見えない<構造>を見出すこと。このこと自体は別に真新しい発想だとは思わない。しかし、一つの知のシステムに閉じこもって他の文化を評価・断罪することの危険性が、近年のグローバリゼーションへの懸念とあいまってすでに強い関心を集めつつある現状を考えるならば、この思想を再評価することの重要性は高いと言えるだろう。

 ヨーロッパ的な知のシステムを相対化・解体する思想として現れてきた構造主義だが、同時に構造主義がヨーロッパ知のシステムから必然的に生まれてきたものであることも確かである。自身をも相対化してしまう思想を生み出すほどのダイナミックなこのシステムは、これまで多くの問題を世界中で引き起こしてきたとはいえ、残念ながらと言うべきか今のところ最も進んだ知のシステムだろうと思う。

 日本は明治時代にこのヨーロッパ近代主義を導入した。そして導入したのは政府(国家権力)である。ところが「モダニズムはもともと、権力から自立をはかるべく、市民階級が自分たちの手でうみだしたもののはずだから、このこと自体、グロテスクなこと」(226頁)なのである。導入したあとも日本では市民社会が定着することもなく、「土着の要素もふんだんに吸収した、天皇制という奇妙なものに育ってしまった」(227頁)。ヨーロッパ中心に世界を解釈していた傲慢な近代主義をそのまま導入したせいで、その傲慢な部分もきっちりと真似してしまった。このような反省から、橋爪は世界と共有可能な自前のモダニズムを築く必要性を説く。そしてこれまで幅を利かせてきた思想と格闘することなく、安易にポストモダンになびくことの危険性を主張する。ヨーロッパ近代主義にせよマルクス主義(対抗モダニズム、変則的モダニズム)にせよ、これら旧世代の思想とまるで対決していない現代の思想状況を見て、同じ過ちを繰り返さぬよう警告を発している(229頁、231〜232頁)。

 流行になびいてヨーロッパ近代主義は終わった、マルクス主義は死んだ、時代はポストモダンだと騒ぐのは易しい。しかし橋爪の言う通り、思想はどこまでも思想である。これまでの思想と格闘することを経ないうちは、自前のかつ普遍的な思想など生まれるはずもない。旧世代の思想を冷静に振り返ることのできる時代になったのだから、もう終わった思想として片付けるのではなく、今こそそれらととことん格闘・対話せねばならない。構造主義を平易な文章で紹介することで橋爪が最終的に若い世代に言いたかったこととはこういうことなのだろう。