立花隆、利根川進『精神と物質』書評

とにかく名言のオンパレードである。自分にはほとんど理解不能な専門領域の議論の端々に、学問に携わるあらゆる人間が心得るべき基本的姿勢とも言うべきものがちりばめられている。いくつか例を挙げてみよう。

日本の大学院というのは(略)学生を教育しない。(略)科学者として本格的に研究していくための基礎的訓練をきちんと系統的に受けていないわけです。(略)だから科学研究の本当の基礎が欠けた研究者ができてしまう。日本の基礎科学が弱い原因はこのあたりにある。(アメリカでは)だいたい大学院生を一人前の研究者として認めていない。(略)徹底的に訓練する。(53〜54頁)

やっぱり各論より根本的な原理を探求する研究をしたいと思わなければ本当のサイエンティストとはいえませんよ。ところが現実には、各論の中でもとりわけどうでもいいようなことをやってる人が多すぎるんです(115頁)

一人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終ってしまうんですよ。だから、自分はこれが本当に重要なことだと思う、これなら一生続けても悔いはないと思うことが見つかるまで研究をはじめるなといってるんです。科学者にとって一番大切なのは、何をやるかです。(115〜116頁)

よく科学者にはオリジナリティがなければいけないというでしょう。もちろんその通りです。ところがこのオリジナリティの意味を取り違えている人がいるのです。大切なのは、オリジナルでかつ重要度が高いことをやることです。人がやってないことなら何でもオリジナルで、だから研究する価値があると主張するのは間違いだと思いますね。(117頁)

とりわけ研究テーマの選択は慎重に、できることなら研究を始めるのはずっとあとにした方がよいという意見は、よく研究テーマから脱線する癖がある自分としては、研究を始めるたびに立ち返るべき言葉であるように思う。

利根川進の思想を貫いているものは物質→生命→精神(脳)と歩んできた自然科学の流れである。(これについてはダニエル・ゴールマン『EQ こころの知能指数』書評も参照して下さい。)これまで未知のものとして扱われてきた精神を物質レベルから説明しようとする試みは、利根川の言う「現象的な経験知の集大成にすぎない」(326頁)人文科学に革命的な影響を及ぼすことになる。立花はこのような考えを物質還元論決定論だと言うが、それは必ずしも妥当ではないと自分は思う。現に利根川は偶然性が働く余地は残っていて、その範囲内で環境が影響を与えうると言っている。人間の行為の全てがDNAに還元することで説明が可能だとまでは言っていない。この本を読む限りでは、利根川の主張はバランスが取れており、原理がきちんとわかっていることのみを扱おうとする科学者としての誠実さが現れているように思う。

もちろん利根川が言うように人文科学がいずれ脳の研究に向かうかどうかは定かではないだろうし、そのような研究が全てだとは思わないが、未知のものを「不確実性(uncertainty)」一語で片付けてきた議論に対しては、いずれ多大な影響を及ぼすことになるのではないか。