モブ・ノリオ『介護入門』(文藝春秋、2004年)書評

介護入門

介護入門

第131回芥川賞受賞作である。著者は1970年生まれだから自分と4つしか違わない。たいしたものだ。著者独特の世界と文体のために、ネット上で散見されるいくつかのレビューでは性が合わないとか、肌が合わないとか書いている人もいたが、性に合う合わないというよりも、むしろこれは慣れの問題だと思う。まあ最初はおそらく「なんだこりゃ?」と来るだろう。ルサンチマンから来るこの魂の叫びは尋常ではない。でもその叫びと怒りの向こうに、主人公の気の小ささや怯えが透けて見えて、軽々しくクズ人間として唾棄できない哀愁が漂っている。

しかし、著者はまだ若い。主人公に、ばあちゃんの下の世話をしているという道徳的な高みに立って、介護から意図的に遠ざかる親戚らを悪罵させる箇所が幾度となく出てくるが、世の中そんなふうに簡単に悪を特定できるなら苦労はないのである。どんな人間にも死という最大の不条理がひたひたと忍び寄っているのであり、今後この著者がもっと深く人間性を描くようになるのか、注目していたいと思う。

ついでに、本書の雰囲気を少し紹介。以下のようなラップ調とFour-letter wordsが最初から最後まで続くのである。好き嫌いが分かれるとは思うけれど、惹かれるものがあるなら読んでみるとよいでしょう。

「昼下がりなど、祖母の様子を見に下りていく、すると、おばあちゃんにテレビを見てもらっていますと称して、手の空いた介護士が介護ベッドを背にし低俗なワイドショーに見入っていたりする。Oh, what a fuckin’ shit? 最後の‘shit’は、‘i’を強く、若干伸ばし気味に、口を歪めて尻上がりに発音してくれ、≪シイッテッ?≫とな。俺のばあちゃんはヤンキー上がりのブス漫才師が出てる糞番組なんて見ないぜ。不倫だと?真実の恋に目覚める中年女たちだと?何故に低所得者層の抑圧された主婦向けに作られた瘋癲(ふうてん)電波で祖母の脳を汚染するのだ?ばあちゃんがこれでガンコな汚れも落ちるのねと香りの粒入り洗剤を買ったり、今月はちょっぴりピンチだからとサラ金からカジュアルに十万円借りたりするか、fuck! 祖母は捕まえる間もなく脳を通り過ぎる映像と音の垂れ流しに五感を奪われているに違いないのだ。こんな時、「すいませんが、その頭のおかしくなる番組、つまり頭のおかしいことに気付いていない人たちが喜んで観たがる番組を消してもらえますか?」と口に出す訳にもいかねえだろ?俺はそのヘルパーにテレヴィジョンについての個人的な見解を語り出す、そうすると必然的に国家や資本について話は及び、二階の部屋から『ゼイリブ』のビデオなんか持って下りた日には五時間ぐらいはあっという間だ、挙げ句、あそこのおばあさんは楽だけど孫がどうしようもない気狂いでってことになり、ヘルパー連中はウチを避けて誰も寄りつかなくなる、だから俺はわざとらしく、「なぁ、おばあちゃんの好きな相撲やってるで」祖母に語りかけながら、幕下力士の取り組みから横綱大関の大一番まで延々と流し続ける、ある意味では究極に dope(麻薬的) なチャンネルへと変えるのだ。」(37〜39頁)

「YO、朋輩(ニガー)、言葉は人間の糞だ、何を食べたか、どんな生活をしたかで糞は変わる。」(53頁)

「血の濃さなんか介護には糞の役にも立たぬのだよ、朋輩(ニガー)、ケツを拭くときのぬるま湯以下だ。他の誰かが作った物語のほとんどが自分にとってゴミ以下なのとおんなじことだ。「そんな君の物語など君固有の幻想ではないか?」などとほざく奴には、それだけが現実だと教えてやろう、「二流の書物とセックスして死ね」だ、頭悪男くん。書物がすべて人間の脳から出たこと、頭悪男の脳も新たな書物を発明しうることを俺は介護の現場から学んだ。俺自身が新しい書物になったからだ――無論、俺にとって新しい、という意味でだがな。」(55〜56頁)