Colin McInnes, Spectator-Sport War: The West and Contemporary Conflict(「スポーツ観戦としての戦争」)書評(CO: Lynne Rienner, 2002)

sunchan20042005-02-27


本書は、前世紀に人類が経験した二つの世界大戦のあと、戦争の質は根本的に変わってしまったという認識のもと、①どう変わったのか、②なぜ変わったのか、を説く。Mary Kaldorが“New War”(Mary Kaldor, New & Old Wars)と呼んだものを、本書の著者は“Spectator-Sport War”(スポーツ観戦としての戦争)と呼ぶ。

私にとってコソヴォにおけるNATOの戦争は非現実的なものであった。ヴァルカンで軍の任務についている知り合いは一人もいないし、この戦争によって私はどのような意味においても全く被害をこうむらないのだ。(中略)つまり私は傍観者にすぎなかったのだ。(中略)正直に言って、私の戦争への関与のレベルは、テレビでマンチェスター・ユナイテッドの試合を観るのとさして変わらない程度のものであった。(2頁)

湾岸戦争で、米軍が最先端兵器を使用して戦争を遂行する様がテレビに映され、「まるでテレビゲームのようだ」と当時よく言われた。また、湾岸戦争後もたびたび行われたイラクへの空爆についても、「パイロットは戦争に行くというよりもむしろ、一般のサラリーマンと同じように朝家を出て勤務地へ向かい、(中東の)空軍基地からイラクまで飛び、空爆をしてまた基地へ戻り、その日一日の任務を終えて家族のもとへ帰っていく」というあまりにも日常的な生活サイクルが、戦争という現実を希薄にさせると指摘されたこともあった。本書の著者によれば、それらの現象は――少なくとも西洋先進諸国においては――戦争の意味が根本からして変化を遂げてしまったことの結果だということになる。戦争はもはや「全体戦争(total war)」の時代から、「スポーツ観戦としての戦争(Spectator-Sport War)」へと移行してしまったのである。

著者は、全体戦争の特徴として二つの点を挙げる。それは「escalation」と「participation」である。二つはお互いに密接に関わっており、戦争に関与する人間が一部の軍人や傭兵のみだった時代から国民全体へと規模を拡大した(participation)のに伴って、戦争の規模も目的も“escalation”せざるを得なかった。戦争はますます非妥協的なものになっていき、相手が殲滅されるか完全降伏するまで続いた。国家が総動員して戦争へと関与した時代においては、軍事力のみならず、それを支える産業基盤と労働力が戦争での勝利のために必要不可欠とされた。敵側の視点からすれば、産業基盤と労働力は「格好の攻撃対象」であったのだ(10頁)。それを最も明確かつ残虐な形で証明したのが、大都市を標的とする「戦略爆撃」であった。それは戦闘員と非戦闘員の境界を曖昧にし、一般市民の大量殺戮を正当化した。それは広島・長崎への原爆投下という形で極限の形態に達した。

では「スポーツ観戦としての戦争」の時代を迎え、この二つは如何様に変化したか。まず、二つの大戦を経て、敗者の側のみならず勝者の側においても戦争に対する忌避願望が強まった結果、戦争はよりいっそう最終手段としての性格を強めた。また核兵器の開発によって、安易な挑発は地球全体が消滅しかねない核戦争へと発展する可能性をはらんでいたために、全体戦争はますます非現実的なものとなっていった。その結果、戦争の規模・目的ともに限定化されるようになる。戦争で被害を受ける地域はごく一部にとどめられ、それが他の地域や全世界に飛び火することのないよう抑制が行われた。また、戦争目的も相手の殲滅や無条件降伏に設定する戦争というのは考えられなくなった。著者の言葉を借りれば、「escalationからlocalizationへ」「participationからspectatordomへ」と戦争の性格が大きく変貌を遂げたのであった(Chapter 4)。

この「傍観するものとしての戦争」の背景にある前提は、「一般市民(非戦闘員)の被害は少なければ少ないほどよい」「戦場は一般市民が暮らす場所から離れていればいるほどよい」ということである。前者は、味方のみならず、敵方についても当てはまる。イラク戦争で被害を受けている一般市民の映像が出るたびに、アメリカ国内における戦争への批判が強まるのは、その背景に著者の指摘する戦争の質の根本的転換が存在するからである。

この戦争観の革命的変化が戦争戦略に及ぼした影響も大きいものであった。本書に即して列挙すると以下のものが考えられる。

①「防衛」から「介入」への重点の移動
②敵の意味の変化
③航空戦力の重視(=地上戦力の重要性の相対的低下)
④RMA(=Revolution in Military Affairs)の登場

①紛争地域は、先進諸国の一般市民が住んでいる場所から離れていれば離れているほどよいのであるから、軍事戦略は自国の防衛よりも、紛争地域への選択的介入が中心とならざるをえない。そしてそこで必要とされる戦力は、軍の遠隔地展開能力(power projection capabilities)となる(62頁)。

②軍事戦略における2つ目の重要な変化として、「敵」の意味の変化が挙げられる。全体戦争の時代において、それは敵対「国」を意味した。第二次世界大戦時のアメリカにとって日本とは国全体が敵であったのであり、その軍事戦略に一般市民と軍指導層の区別を見出すことはできない。その最も端的な結末が、先述したとおり、大都市への戦略爆撃と原爆の投下であった。しかし、「スポーツ観戦としての戦争」の時代において、戦争犠牲者数に敏感な世論は、敵国において「邪悪な指導層」と「抑圧される無垢の一般市民」という分類を要求した。66頁の図4.3にあるとおり、「指導層(Leadership)」だけを狙う――言い換えれば、攻撃目標への爆撃によって生じる敵方の一般市民の巻き添え被害(collateral damage)を最小限に抑える――戦略が最優先されるようになる。

③そして②に関連して重要なことは、最先端の技術を駆使した航空戦力によってそうした被害最小限の戦略的重点目標爆撃(attack against center of gravity)が可能になるという発想である。そしてそのような攻撃を可能とするのが、軍事技術の「革命的」発達、RMAの登場である。

核兵器の開発成功は、間違いなく一つのRMAであった。しかし、現在人口に膾炙しているRMAとは、核兵器とは異なりいくつもの技術が積み重なって成し遂げられたものである。例として、衛星によって誘導される巡航ミサイル、遠隔操作され、戦場の画像をリアルタイムで送信できる航空機、いくつものセンサーから集められた膨大な量の情報を処理できる特殊コンピュータなどが挙げられている(116頁)。すなわち、RMAを「革命」たらしめているのは、精密誘導兵器(Precision-Guided Munitions, PGMs)であり、この技術革新なくして上記の①〜③は全く現実的な意味を持たなくなってしまうのである。航空戦力によって使用されるPGMsによって味方の犠牲を出すことなく選択的な介入が可能となり、指導層だけを狙って「個々の建物どころか、1つの建物内部の特定のセクションのみを高い確率によって攻撃することができる」(81頁)ようになってしまったのである。

RMAについては、その画期的な性格を否定する人もいる。何をもって「revolutionary」とみなすかの立場が異なっているのである(本書では、その評価の仕方の違いを3つの立場に分けている。―― “Add IT and Stir,” “The Digital Battlefield,” “Cyberwar”)。また公平性を保つならば、本書では航空戦力の限界も指摘されていることも言わなくてはならないだろう。①巻き添え被害への過敏な反応とその他の政治的な配慮のために軍事的な効果が著しく低下しかねないこと、②陸軍は獲得した領土をもって、海軍は海上封鎖によって出入りを阻止した船の数などによって、相手に与えた損害を計測することが可能であるのに対して、空軍の場合はそれが行った攻撃が相手指導層の政策決定に与える影響を計測するのが極めて困難であること、③最終的には陸上戦力と海上戦力なくして戦争に勝利することは無理であること、が挙げられている(94、95、105頁)。

最後に、この「スポーツ観戦としての戦争」に潜む大きな落とし穴について触れる。コラテラル・ダメージへの非寛容と精密誘導兵器の登場によって、「スポーツ観戦としての戦争」は、よりクリーンな戦争としてのイメージを作り上げようとしている。ところが現実の戦争にクリーンなどというものはありえない。どれほど立派な大義によって始められた戦争であっても、非戦闘員の被害は防ぎ得ないし結局は大勢の市民が死んでいくのである。またクリーンな戦争=効果的な戦争という誤った等式が暗黙のうちに了解されてしまっていることである。ボスニアコソヴォで華々しく始められた空爆だったが、実際に起こっている虐殺を止めることは全くできなかったし、根本的な対立状況の改善にもなんら寄与しなかった。にもかかわらず、この形態の戦争においてまず必ず空爆から始められるというのは、空爆の戦略的・戦術的効果が幾分盲目的に信じられているからであろう。

また、本書で触れられているのはメディアのバイアスにさらされやすいという点である。遠くで起こっていることを傍観(spectate)するのであるから、それは必然的にメディアを通してということになる。しかしメディアで伝えられるのは、メディア側が伝える価値があると判断したもののみであって、そうでないものは伝えられない。

さらに最大の欠点は、西洋先進諸国がより文明的に進歩した戦争形態として「スポーツ観戦としての戦争」を制度化しようとしても、対峙する側がみすみすやられたままでいるわけがないということである。この新しい戦争観がもつ最も重要な価値観は「非戦闘員の保護」であることは明らかだが、これは逆に言えば最大の弱点ともなりうるのである。被害を恐れるということは、相手にとっては被害を最大化する戦略をとるのが最も効果的ということになるわけで、「スポーツ観戦としての戦争」に対抗する手段として、ますます非対称戦争(テロ、非戦闘員の利用(非戦闘員の中に戦闘員が紛れ込んだり「人間の盾」を作ることでコラテラル・ダメージを最大化させようとしたりする)など)に訴える可能性が高くなるのである。9・11はその典型的かつ最も顕著な事例であった。

戦争の質そのものが革命的な転換を遂げたとする本書の指摘は大変示唆に富むものであり、それは「人間が何に対して最も脅威を感じ、何を最も受け入れられないものとみなすか」という点での大きな変化が起こっていることを意味している。この戦争の質的大転換をきちんと認識した上で、ではどのような軍事戦略・戦術が効果的なのかを考えなくてはならないのである。そして最終的に、我々は、RMAと航空戦力を主体とした現在の軍事戦略・戦術が抱える大きな弱点を認識せざるを得なくなるだろう。