つれづれ日記:意味なき世界を生きる

人生の教科書[よのなか]

人生の教科書[よのなか]

宮台真司「意味なき世界をどう生きるか?」藤原和博宮台真司『人生の教科書[よのなか]』(筑摩書房、1998年)


今回はあるきっかけで読んだ本の中で宮台真司氏が書いていたことについてです。彼の本はいろいろ持っているワリにはちゃんと読んだことはまだなく、今回もその本の中で彼が担当している章を読んだに過ぎないのですが、彼の言う「意味の空洞ぶり」になるほどとは思わされるものの、やはり素直に受け入れる気にはなれなかったので、ここにそのことを記しておこうと思います。


経済が右肩上がりの成長を続けていた頃、日本は誰もが「意味」を求めていた。いい学校、いい会社、いい家庭、いい暮らし。特に男は、「天下国家のため、立身出世のため、世のため人のために生きる」ことがよしとされていた。進歩史観イデオロギーがそのような現実を肯定的に見るよう促した。


ところが冷戦も終わって右肩上がりの成長も終わり、そういう意味すべてが相対化されてしまって、自分のやってることに意味を見出すことが難しくなってしまった。自殺の急増もそれと無関係ではないだろう。今まで信じていたものが突然無価値になってしまうことが衝撃的だったのだと思う。


ところが、ニーチェはこんなことを言っていたのだった。

「意味が見つからないから良き生が送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ。」

なんて重々しい言葉だろう。この言葉を素通りできる人が現代に果たしてどれほどいるんだろうか。

宮台もそれに賛同して、こう言っている。

「僕は、いろんなところで講演をするのですが、そこで意味にすがって生きる者たちの「意味の空洞ぶり」を指摘して叩きのめすようなことを、続けてきています。」

これは、一見すれば、なにかに意味を見出して(あるいは見出そうとして)必死になっている人たちをあざ笑うかのような態度のように見えてしまうが、これは彼自身が苦悩の末に出した結論なのだろうから、もう少し聞いてみる価値はあるはず。


そして、今を生きる人たちに必要なのは、天下国家を語るような「物語」じゃなくて、「今ここ」を楽しく生きること、だと言う。

「遠い未来のために現在を、不透明な社会のために自分を、犠牲にするのはヤメて、「今ここ」を楽しく充実して生きるべきこと。「今ここ」で世界と自分の折り合いをつけるために――世界とシンクロするために――いろいろと試行錯誤するべきこと。」

確かに、世の中は「意味の押し付け」であふれている。「こうすれば幸せになれる」→「他人もこうすべき」となり、自分の認識で獲得したにすぎない「意味」を、当然他人にとっても有益なものと考えて押し付ける。「意味を他人に押し付けること」に比べたら、各自が勝手に自分が面白いと思うことをやること、つまり「今ここ」を充実させる努力をすること、というのは、少なくとも「生きやすさ」には寄与するかも知れない。


そして宮台のように、「意味を追求すること自体無意味」と言うこともできるかも知れない。確かに意味を求めるのは究極的には無意味なのかも知れない。でも、そうわかっていても追求せざるを得ないのが人間であり、それぞれがそれぞれに自由に意味を追求できるのが幸せということじゃないんだろうか、と自分は思う。そういう悲哀というか滑稽というか、それこそが人間のユーモアの源であると思うし、そう考えたほうが、宮台が重視する「コミュニケーション」にとってもプラスに働くような気がする。


それに、「今ここを楽しむこと」が、「意味を見出すことでは解決できなかった問題」、つまり「いかにこの無意味な世界を生きていくべきか」という問いに対する最終的な回答になるとも思えない。無意味さからくる虚しさを克服する方法とは思えない。


宮台は同じ文章の中で、こんなことも言っている。

「風俗嬢たちが証言するように、女性ばかりか男性も、セックス自体というよりそれに伴う「承認」を得ようとしています。性に自信のない男は、自信を獲得しようとし、家族的な親密さから見放された男は、演技でもいいから親密な関わりを回復しようとし、肩書きの鎧に守られた自分ではなく、鎧の内側の自分をさらけ出して褒めてもらいたいと思っています。そこに見えてくるのは、僕たちの社会の「承認の供給不足」と「尊厳の危機」です。」

社会の中のかなりの人たちが、自分の生の意味を見出せず、だから自分の生き方に自信を持つことができず、結果として「他人を承認できる」余裕なんかこれっぽっちもない状態に置かれている。どちらかといえば、わずかな優越にすがって自分を「あれに比べたらマシ」と慰めることで、なんとか生を放棄せずに済んでいるのが実情である。


そんな「せせこましさ」に対して、宮台のように「意味を追求すること自体無意味」と切り捨てて「叩きのめす」ことには一種のカタルシスがあるのかも知れない。でもそれだけでは、彼の言う「承認の供給不足」と「尊厳の危機」という問題は、なんら解決されることなく残ってしまう。


あと半世紀もすれば、これを読んでいる人のほとんどはすでにこの世にはいない。にも関わらず、その限られた時間の中で意味を追求することにどんな意味があるのか、と言われたら、「ないかも知れない」と言うしかないだろう。でも、そうとわかってても意味なしには生きる意欲も持てないのが人間であると思うし、意味を追い求める以上は、その意味の獲得をめぐって嫉妬や恨みが渦巻くのも人間の性だろう。


ただ、そうとわかっていて「意味の追求」において抑制を示せるか、という「程度の問題」はあるだろう。それによって、自分とは相容れない他者の意味追求に対しても寛容になれるだろうし、結果として生きやすい社会につながっていくと思う。


しかし、残念ながら、今日も世の中は――自分がそうしているとも認識しないまま――「意味の押し付け」であふれ、他人を不幸にしている。