つれづれ日記:経済的豊かさと幸せ
日曜日の毎日新聞で面白い書評に遭遇した。書名はW・バーンスタイン『「豊かさ」の誕生―成長と発展の文明史』。
本と書評の詳しい内容は置いておくとして、この中村達也氏が書いた書評の中で面白いことが書いてあった。以下は世界的に著名な経済学者、ポール・クルーグマンの言葉で、本の中で引用されているそうである。
私の仕事は楽しく、給料もよく、世界中の学会から招待状が寄せられもした。人類の九九・九パーセントと比較すれば、私は恵まれていた。嘆くべきことなど、一つもなかったはずだ。でも人間というのはそれで満足するような生き物ではない。私は、同世代のトップ経済学者だけを、自分の同類と見ていたのだ。そうなると自分は同類の中の落伍者に思えてしまうのだった。(毎日新聞2006年11月26日)
クルーグマンほどの人ですら、これである。
人間がいかに自分の周りの狭い関係性の中でしか生きていないかがわかる。
おそらく経済学から来たのだろうと思うが、国際政治の理論には「絶対利得(absolute gain)」と「相対利得(relative gain)」という概念がある。「自国の軍事力は大きければ大きいほどよい」(国家=security maximizer)のか、それとも「軍事力は競争国よりも上でありさえすればよい」(国家=security optimizer)のかという話で、後者が他国との関係性(strategic interaction)を変数に入れているのが特徴。
それと同じで、人間の幸福というものも、他者、しかもごく近いところにいる少数の他者との比較によってしか定まらない、というのがクルーグマンの言葉から言えることだろう。
この本の中では、経済的豊かさが幸福感につながるのは、一人当たりGDPが一万五千ドル以下までの国で、それ以上の国では、経済的豊かさと幸福感はほとんど関係ないというデータに基づいた大胆な仮説が提示されているらしい。そして、豊かな国においては、
「絶対的な富の多寡よりも、隣人と比べてどれだけ豊かかということの方が重要になってくる」。
良くも悪くも、人間は他者の存在を抜きにして、己の幸せすら論じることができない。それはどうしようもない。でも仮にそれを認めるとしても、その自分が比較対象にする他者、つまり近くにいる人々は自分の意志で選別できると思う。くだらない他者とくだらない比較をしなくて済むよう、関わる人間を自分で意識的に変えることはできるはずだ、と。