植村直己『極北に駆ける』書評

sunchan20042008-03-08

極北に駆ける (文春文庫)

極北に駆ける (文春文庫)

この文庫が世に出てからすでに30年以上が経っている。脈略もなく偶然読むことになったこの本で、植村直己という人物のことを初めて知った。冒険に対する飽くなき野心を持ち続けた「冒険野郎」こと、植村直己。この本はそんな彼の一冒険ドキュメンタリーである。


日本や多くの先進国で当たり前のようにみなされている倫理観、衛生観念、性に対する認識、金銭観、教育観がまるで通用しないエスキモーの村々で、植村が悪戦苦闘しながら南極大陸単独横断のための準備と経験を重ねていく様子が本人の筆によって描かれている。「日頃の常識が全く通用しない世界」とはこのような状況を指すのだろうと思わされた。(もちろんこれは30年前の本であって、現在のエスキモーはずいぶんと変化していることだろう。)


例えば、先進国で誰もが疑わない「教育の大切さ」。ところがその「教育」の意味するものがまるで違う。エスキモーのある村人がこう言うシーンが本書で出てくる。

「学校なんぞへ行ったってロクなことはない。本を読むと第一目を悪くするじゃないか。狩りが下手になるだけさ」(45頁)

「目の良し悪しは、彼等の食料事情に決定的な影響を与える」(46頁)エスキモーにおいては、「教育とは、狩猟技術の教育以外にはない。」(45頁)甘い考えでは到底生きてゆけないこの酷寒の世界では、いくら本を読んで知識を持っていても、狩りが全くできない者は無価値とみなされる。そのような世界では尊敬の対象も、先進国とは大きく異なる。

エスキモーは犬橇を駆ってアザラシを追う生活こそが誇りなのだ。寒さを恐れ、ムチひとつふるえない外国人は軽蔑の対象にしかならない。家族全員が獲物を求めて犬橇旅行に出たとき、子供が「寒いよう」と泣き出したことがあった。それでも父親は「おまえはカットナ(外国人)なのか」といって放りっぱなしにしていた。ムチが下手でも「おまえはカットナなのか」と怒られる。つまり外国人は、金は持っていても、弱く、なにもできないダメな人間という存在なのだ。だから彼等には金は財産でもなんでもなく、一時の欲望を満たしてくれる大人のおもちゃぐらいにしか考えていない。カーリが高い金を出して買ったテープ・レコーダーは、子供たちがいじくりまわし、あっという間に壊してしまったが、それでもカーリは平気であった。


金があれば好きなように使い、なくなれば本来の自分たちの生活にもどる、彼等にとって金はただそれだけのものなのである。(132頁)

「生き延びること」に至上の価値が置かれる世界。そのような世界に対して、先進国のモノサシでもって「野蛮」や「非文明的」といったレッテルを貼ることは、世界を見る目を単眼的なものにする効果しかもたらさない。自分たちが当たり前と思っていることが、実は全然当たり前でもなんでもないのだということ、世界には自分の価値観とは全く対照的な価値観を持つ人々もたくさんいるのだということ、自然の脅威の前では、人間など脆い存在でしかないということ、植村の冒険記録はそのことを改めて教えてくれる。