見ることと聴くことの哲学

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

都会に住んでいる人は、ふだん多くのものを見て、多くの音を聴いているように自分では感じているかも知れないけど、実際にはそれほど「聴いてない」のではないだろうか。

「見る」という行為は見る対象を突き放す。自分の存在と対置することによって、対象を分析しようとする意図が「視線」にはある。「見る」という行為が一方向に対してしかできないのとは対照的に、「聴く」という行為は全方向からの音を一度に受け取ることができる。「一つのものを切り離し突き放して分析する」視覚と、「全方位から届く音という情報をまとめる」聴覚。

これは
「てめえ、何見てんだよ」
とか
「てめえ、何ガン飛ばしてんだよぉ」
と怒る人はいても、
「てめえ、何耳すましてんだよ、このやろう〜」
と怒る人はいないことを部分的に説明している。

つまり、視線とは「他者を疎外する効果」を持っているのに対し、聴くという行為にはハーモニーを生み出す効果があるのである。都会の街の雰囲気が異様にギスギスして良くないのは、そこに他者への強烈なまなざしはあっても、他者が発する音や肉声に対して耳をすませるという行為がもつ統合的機能が基本的に衰えてしまっているからじゃないだろうか。

こんな発想はもちろん自分のものではない。オングの受け売りである。

「視覚は、一どきに一方向からしかやって来ない。つまり、部屋を見たり風景を見たりするためには、眼をあちこちに動かさなければならない。ところが、聞くときには、同時にそして瞬時に、あらゆる方向から音が集まってくる。つまり、わたしは、自分の聴覚の世界の中心にいる。その世界はわたしを取りかこみ、わたしは、感覚と存在の一種の核の位置にいる。[聞く者を世界の中心に置く]音のこの中心化効果を、ハイファイ・ステレオはきわめて洗練されたやりかたで利用している。聞くことのなかに、音のなかにひたりきることはできるが、おなじようなしかたで視覚のなかにひたることはできない。」
(W-J・オング『声の文化と文字の文化』153頁)

明日から実家へ一時帰省。ハーモニーを感じる音のことを考えると、実家の真向かいにある山の山頂でいつも聴いている、海からの風の音を思い出す。日ごろ都会でそれほど必要とも思えないものを大量にかつすばやく見せられている人間にとって、田舎の自然の中で耳を澄ますというただそれだけの行為が、人間をほんの少しだけ本来の姿に戻してくれるような気がする。