「愛とは習得できるスキルである」

勢古浩爾が指摘するように、現代は相互承認が絶対的に不足している時代である。多くの人が、「他人は認めたくないが、自分は認められたい」のである。そして資本主義のもとで成り立っているほとんどすべての職業が、程度の差はあれ何らかの形で「他者を見下すことによって成り立っている」と言っても過言ではない。

しかし、勢古が言うとおり「承認をめぐる闘争はそう甘くはない」。自分が認められたければ、自分も他人を認めなくてはならない。むしろ「他人の力量を進んで認められる能力」が必要となる。

出典がよくわからないのだが、ある資料に載っている英文エッセイの内容が面白かったので、その全訳の一部を以下に引用する。他者との豊かな関係を築く上で不可欠な「愛」について、「それは誰もが習得可能なスキルである」と断じているところが意表をついて面白かった。

愛は酸素と同じくらい、心と体にとって必要不可欠なものである。愛は譲渡できない。人とのつながりが強ければ強いほど、肉体的にも精神的にもそれだけ健康になる。つながりが弱ければ弱いだけ、その分リスクを負うことになる。また、自分の持つ愛が少ないと、その分だけ人生において憂鬱を感じることが多くなるだろう。愛はおそらく手に入る最高の抗鬱薬である。なぜなら、憂鬱の最もありふれた原因は愛されていないと感じることだからだ。憂鬱な人のほとんどは自分を愛していないし、他人から愛されていると感じられない。また、そういう人は関心を自分にだけ集中させているので、他人にはあまり魅力的に映らないし、愛のスキルを学ぶ機会を失ってしまっている。

私たちの文化には、愛は自然発生的なものだという俗信がある。その結果、憂鬱な人々は受動的に時をなんとなく過ごし、誰かが自分を愛してくれるのを待つだけということがよくある。だが、愛はそんなふうにはいかない。愛を獲得するためには、そして愛を維持するためには、外に出て活動的になり、さまざまな具体的スキルを学ぶことが必要なのである。

私たちのほとんどは愛の概念をポップカルチャーから得る。愛とは、何か私たちを虜にしてしまうようなものであると信じるようになる。しかしポップカルチャーにおける愛の理想は娯楽のために創り出された非現実的なイメージにすぎない。だからこそ憂鬱に陥れられる人がこんなにも多いのである。これは私たちの国民的弱さの一部であろう。ちょうどジャンクフードを食べるようなもので、即座の満足というイメージによって絶えず刺激されているのである。ただ単に気晴らしであったり心酔であったりするものを愛だと思ってしまうのである。その1つの結果として、本物の愛に出会った時に気を悪くし失望してしまうことがある。ポップカルチャーの理想に当てはまらない事柄がたくさんあるからだ。人によっては、自分の理想が見当違いであることには気づかないまま誰か他の人が自分のロマンスの理想に合うことをやってくれることを求め、さまざまな要求をするようになったり、支配を求めようとする。

さらに筆者は、愛に対する考え方を変えるために、以下のようないくつかのアドバイスをしている。

盲目的な愛と真の愛の違いを認識すること。盲目的愛とは深い心酔という心理状態である。快感ではあるが永続することはめったにない。盲目的愛は最初の段階に経験する熱狂的な魅了であり、全てのホルモンが流れ出して何もが正しく感じられる状態である。盲目的愛は平均で6ヵ月続く。愛へと進化することもある。実際ほとんどの愛は盲目的愛として始まるのだが、ほとんどの盲目的愛は愛へと発展することがない。

愛するということは習得されるスキルであり、特にホルモンや感情に由来するものではないということを知ること。愛のスキルを学ばなければ、実質上自分が憂鬱になることを保証するようなものである。十分なつながりを得られないからだけでなく、多くの失敗を経験することになるからである。

「愛」という形を取るかどうかは別にして、他者を承認する行為は「習得できるスキル」であって、誰でもやろうと思えばできることだと言ってもよいと思う。

それにしても本来であれば社会的人間にとってのゴールである「認め合う関係」が、「スキル」といういかにも利害と結びついた呼称で「手段」として使われていること自体、この世の生きにくさを暗示しているように思われる。