ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者 (新潮クレスト・ブックス)

朗読者 (新潮クレスト・ブックス)


至るところで絶賛されている

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

を読み終えた。

カバーに池内紀

「いつものカフェで読みはじめた。――気がつくとカフェに灯がともり、外はとっぷり暮れていた。こんなに読み耽ったのはひさしぶりだ。」

というコメントが書かれているのがわかる気がした。読み始めたら最後まで読んでしまわないと落ち着かない小説だった。

イメージしていたのとはずいぶん違う話だったが、性急な善悪の判断を下すことなく罪に向き合う人間を淡々と描いているところが印象的だった。

あらすじはネタバレになるので書かないが、印象に残った箇所を引用したい。

なぜだろう? どうして、かつてはすばらしかったできごとが、そこに醜い真実が隠されていたというだけで、回想の中でもずたずたにされてしまうのだろう? パートナーにずっと愛人がいたのだとわかったとたん、幸せな結婚生活の思い出が苦いものになってしまうのはなぜだろう? そんな状況のもとで幸せでいるというのは、あり得ないことだからか? でも確かに幸せだったのだ! 苦しい結末を迎えてしまうと、思い出もその幸福を忠実には伝えないのか?幸せというのは、それが永久に続く場合にのみ本物だというのか? 辛い結末に終わった人間関係はすべて辛い体験に分類されてしまうのか? たとえその辛さを当初意識せず、何も気づいていなかったとしても? でも、意識せず、認識もできない痛みというのはいったい何だろう?

黙殺というのは、数ある裏切りのヴァリエーションの中では、あまり目立たないかもしれない。外から見るかぎり、黙殺なのか謙遜なのか、配慮しているのか、気まずさや立腹を避けているだけなのかわからないだろう。しかし、黙り続けている当人は、はっきりとその理由を知っている。そして、この黙殺行為は、派手な裏切り行為と同じくらい、二人の関係の基礎を揺るがすものなのだ。

ぼくの故郷の町を去ったときにハンナにとって問題だった事柄と、ぼくが当時想像し思い描いていた別離の理由とがまったく違っていたという事実は、妙にぼくの心を動かした。ぼくは、自分が彼女を欺くような行動をとったので、彼女を追い出すことになってしまったのだ、と確信していたが、実際は彼女はただ市電の会社で文盲がばれるのを避けただけなのだ。もちろんぼくが彼女を追いだしたわけでないとわかっても、彼女を欺いた事実がそれで変わるわけではなかった。つまりぼくは有罪のままだった。そして、犯罪者を欺いたことが罪にならないとしても、犯罪者を愛したことが罪になるのだった。

この本は『愛を読む人(The Reader)』という題で、映画タイタニックのヒロイン役を演じたケイト・ウィンスレット主演で映画化されている。
http://www.youtube.com/watch?v=n4H3k1v2Ilc