草森紳一『本の読み方―墓場の書斎に閉じこもる』書評

本の読み方

本の読み方

表紙と裏表紙の写真がいい。この他にも本書の中では、多くの「読書中の人」の写真が出てくる。場所も格好も様々で、ポーズではなしに真剣に読みふける姿が伝わってくる。

副題の「墓場の書斎に閉じこもる」とは、毛沢東が少年の頃、父親の目を盗んで野良仕事をさぼりながら、墓場の木の下で本を読みふけっていた逸話から来ている。毛沢東の本の読み方は、「けっして書物にのみこまれない。現実への応用ということがつねに念頭にある」(166頁)読み方であったという。

文革期の知識人狩りは、書物人間へのいらだちである。中国の伝統的な書物人間(文人官僚や学者)を退治しなければ、新しい中国はありえないと真剣に思いこんでいた。(166頁)

その他にもいくつか気に入ったエッセイがあって、その一つが「緑陰読書」(つまり、戸外でする読書)である。

「本の読み方」の立場からすれば、自然空間なるものは、いかにその没頭を妨げるかを示してもいる。つまり、うるさいのである。自然は、本を読む人間を祝福するというより、静かなる物音をたてて、まるで嫉妬するかのように人なつこく邪魔してくる。それこそ「書物から顔をあげ」、「本の世界と現実の空間を自在に行き来」しなければならぬ。(35頁)

物音や睡魔に中断されながらも行う「緑陰読書」を、筆者は醍醐味の一つであるという。それは豊かな時間だろうと自分も思う。

晩年(大正時代)、おそらく避暑がてらに関西の僧房に在った時の作で、「緑陰読書」する白髪老爺の樺山資紀は、室内にある。かつての「緑陰読書」は、部屋の中でするものなのである。この場合、寺は、山中にあり、窓を開けば、そのまま「緑陰」のもとにわが身を置いたも同然となる。(37頁)

多分、その読書は、はかどらなかったにちがいないが、それは、それでよいのである。時を忘れ、我を忘れて、書の世界に入りびたることも、快楽であるが、このような読むでなく読む「緑陰読書」も、「積ん読」と同様に醍醐味の一つだともいえるのだ。(38頁)

また、受験勉強をしていた高校2年の時に、本を読むことが楽しすぎてかたっぱしから読みたいという若き日の焦燥感を回顧している箇所には、強い共感を覚えた。

このころ、読書の病気にかかっている。本を読むのが、楽しくてならないのである。もう、かたっぱしから本が読みたい。いいわけとしては国語の勉強になるとしても、なんとも過剰のしわざである。たとえば『枕草子』だって、受験参考書の中の一部分の勉強では満足せず、一冊まるごと読まねば、気がすまぬ。英語の教科書にディケンズがあれば、すくなくとも文庫本にある翻訳をすべて読まないと、いらいらしてくる。(48〜49頁)

本を読みふける人を、突き放して見ているところもいい。

「読書人」が、どこか滑稽なところありとすれば、おそらく挙動に非現実的なところが、ちらちら顔を覗かせるからだろう。体験主義者の批判する「むだごと」への肯定的な自覚もあり、それが生きる味にもなって、「うまく間の抜け」ることになる。(76頁)

文化と呼ばれるものの多くは「むだごと」から生まれるのだと思う。しかし書物に淫する「読書人」の姿にどこか滑稽なところがあることもまたその通りであると思う。きっと自分にもそのようなところはあるはずだと思う。

文体に深みがあり、読んでいてとても心地よかった。なぜだかとても懐かしい感じがした。読書にまつわる本を読むといつも必ず感じるのは、自分の悲惨なまでの読書量の少なさである。世の「読書の巨人」たちからの刺激は途絶えることがない。