「小鳥草花言語学」

実戦・世界言語紀行 (岩波新書)

実戦・世界言語紀行 (岩波新書)

「外国語をまなんでも、どうせ土地のひととおなじように、その言語に習熟することなどはできるわけがない。丁々発止の言語格闘術を身につけるなどということは、のぞむべくもない。それでよいのである。その言語についてのなにがしかの認識をもっていれば、その文化についての理解はそれだけふかまる。わたしはゆくさきざきで、そこの言語がどういうものであるかを観察する。それはいわば、ゆくさきざきで自然の風景をめでるように、文化的風景としての言語をめでているのである。

いま海外旅行がさかんであるが、世界のどこへゆくにせよ、その土地の言語をあらかじめ概観してゆくことをおすすめする。現在では、わたしのわかいころとちがって、おもな言語にはたいてい入門書があり、テープもでていることがおおい。そういうもので概略を理解してゆけば、旅行はずっとたのしくなる。

ひとつの言語もマスターできていないのに、ふたつも三つもちがう言語をかじってみるということに、たいへん抵抗をしめすひともあるが、わたしのかんがえはすこしちがう。どうせ外国語を完全にマスターするなどということは不可能である。しかし、その言語をたのしむことはできる。小鳥を飼うにしても、その小鳥の全習性を理解して、それを完全に飼育し、繁殖させるというところまでやるのはひじょうにむつかしい。しかし、その習性を多少理解して、その姿をめで、そのさえずりをたのしむことはできるのである。草花を栽培するときも、毎年りっぱな花をさかせることはむつかしくても、しばらくはその花のうつくしさをめでることはできるのである。言語の学習にも、そういうやりかたがあってもよいのではないか。この理由から、わたしはこのような言語学習法を「小鳥草花言語学」と名づけている。

世界各地をあるきながら、わたしはそれぞれの土地ではなされている言語を、たとえ断片的にせよ、理解しようとつとめてきた。それは野外のバード・ウォッチングにも似ている。藪のなかの小鳥の姿をちらりと観察し、そのなき声をひと声きいただけでも、ふかい感動をおぼえるのとおなじである。わたしの語学はランゲージ・ウォッチングというべきかもしれない。」

梅棹忠夫『実戦・世界言語紀行』より