生の短さについて

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

セネカ『生の短さについて 他二篇』(岩波文庫)より。

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われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、生を蕩尽(とうじん)する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど約しい(つましい)財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、われわれの生も、それを整然と斉える(ととのえる)者には大きく広がるものなのである。(12頁)

自然は温情をもってわれわれに接してくれた。生は、使い方を知れば、長い。しかし、ある者は飽くなき貪欲の虜となり、ある者はあくせく精出すむだな労役に呪縛され、ある者は酒に浸り、ある者は怠惰に惚ける(ほうける)。また、常に他人の判断に生殺与奪の権を握られている公職への野心で疲労困憊する者もいれば、交易で儲けをという希望を抱いて闇雲な利欲に導かれ、ありとあらゆる土地をめぐり、ありとあらゆる海を渡る者もいる。絶えず他人の危害を企図するか、己の危険を危惧するかしながら、戦への野望に身を苛む者もいれば、自発的に奉仕しながら、感謝もされない目上の者への伺候(しこう)で身をすり減らす者もいる。また、多くの者は他人の幸運へのやっかみか、己の不運への嘆きで生を終始する。移り気で、あてどなくさまよい、自己への不満のくすぶる浮薄さに弄ばれ、これと決まった目的もないまま、何かを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針ももたず、懶惰(らんだ)に萎え、欠伸をしているうちに運命の不意打ちを食らう。そのさまを見聞きするにつけても、詩人中の最大の詩人の書に見える神託風の箴言が疑いもなく真であると、私は思わざるをえない。曰く、「生のごくわずかな部分にすぎぬ、われらが生きているのは」と。その他の期間は、生ではなく、ただの時間にすぎない。至る所、諸々の悪徳が四方を取り囲んで迫り、立ち上がることも、真実を見極めようと目を上げることさえ許さず、欲望に溺れさせ、欲望に執着させて圧倒する。もはや彼らには自己に立ち返ることが決してできない。いささかの安らぎのひとときがたまさか得られても、あたかも颶風(ぐふう)が収まってなおうねりを打つ大海原のように、彼らの心は波立ち、己の欲望をしばし離れて憩うことすらままならないのである。(13-14頁)

富が重荷となっている者の何と多いことであろう。その雄弁で、また、才知を顕示しようとするその日々の営みで血を吐く思いをしている者の何と多いことか。間断のない淫欲で青白い顔をしている者の何と多いことか。おびただしくまわりを取り巻く庇護民の群れで何の自由も残されていない者の何と多いことであろう。要するに、最下層から最上層に至るまで、その種の人間を残らず見渡してみればよい。(法律の)助言を与える者、要請に応じて出席した者もいれば、告発を受けている者、その弁護をする者、それを裁く者がいる。だが、誰一人として、みずからのためにみずからを自由にする権利を主張する者はいない。誰もが他人の誰かのためにみずからを費消しているのである。(14頁)

さらに、彼らの中には、理不尽きわまりない憤慨を口にする者がいる。自分が目通りを望んでいるのに忙し過ぎて時間を割いてくれないと言って、目上の者の高慢さに不満を漏らすのである。誰にせよ、自分自身のために時間を割きもせずに、厚顔にも、他人の傲慢について愚痴をこぼせるものであろうか。しかも、君が何者であるにせよ、彼は、なるほど高慢な顔つきでではあれ、かつて君に目をかけ、ありがたくも君の言葉に耳を傾け、君をそばに迎え入れてくれた人なのである。君はといえば、平気で内なる自己に目を向けもせず、その言葉に耳を傾けもしなかった人間である。だから、君がそうした義務を他人の誰かに押しつけてよい理由はない。何より、君がその義務を果たそうとするとき、他人と共にいたいという願望からそうするわけではなく、君自身が君自身と共にいられないためにそうするだけのことなのだから。(15頁)

「記憶をたどり、思い出してみられるとよい、いつあなたがしっかりした計画をもったことがあったか、一日があなたの意図したとおりに進捗した日が何日あったか、いつあなたがあなた自身を自由に使うことができたか、いつあなたの顔つきがふだんどおりの落ち着きを保っていたか、いつあなたの心に怯えがなかったか、これほど長い生涯にあなたがなした働きとは何であったか、あなたが何を失っているか気づかない間に、どれほど多くの人間があなたの生を奪い取っていったか、あなたの生のどれほど多くの時間を詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わりが奪い去ったか、あなたがその生の中からどれほどわずかな時間しか自分のために残しておかなかったか。あれこれを思い出せば、(百歳になんなんとする)あなたが今、亡くなるとしても、あなたの死は夭逝(ようせい)だと悟られるであろう」(17頁)