「イデオロギーはそれで身を養う人たちをいずれ食い殺す」
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/10/08
- メディア: 雑誌
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内田樹「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」『中央公論』2011年11月号より。
さきほども書いたように、イデオロギーとは「私がこのことを言わなくても誰かが同じことを言うに違いない」という無根拠な信憑の上に存立している。私が挙証しなくても、誰かが私に代わって挙証してくれる。私が非論理的に断定しても、誰かがもっと論理的に理非を明らかにしてくれる。私が粗雑に言い捨てても、誰かが情理を尽くして私の判定の正しさを証言してくれる。そういう「私と同意見のたくさんの人びと」を想定していなければ、人間は断定的になったり、冷笑的になったり、非論理的になったりすることはできない。もし、この作品について「私が思っているようなこと」を言う人間が私以外に一人もいないと思っていれば、私たちは言葉づかいにずっと慎重になる。それが聞き届けられなければ、もうその言葉はこの地上から消えてしまうからだ。そう思えば、理路を明らかにし、たとえ話を引き、カラフルな比喩を使い、読者に懇請するように、「お願いだから、私の言うことをわかってほしい」と書くはずである。そう書かないのは、「私が言わなくても、同じことを言う人間がいくらもいる」と思っているからである。だが、多数派の一員であることを前提にして語るものは、「この言葉を書くのは私でなくてもよい」「私の替えはいくらでもいる」だから「私は存在しなくてもいい」という自己呪詛をコロラリーとして導いてしまう。私がイデオロギーはよくないよと言うのは、それが政治的に正しくないからではなく(正しくないのもよくはないが)、イデオロギーはそれで身を養う人たちをいずれ食い殺すからである。