「政治過程に企業経営の感覚が持ち込まれた必然的帰結」(内田樹)

2013年7月23日の朝日新聞より。
内田樹神戸女学院大学名誉教授「百年の計より目先の得 非効率という知恵疎んじ 一枚岩の政党選んだ」

この「ねじれの解消」という文言もまた先の「綱領的・組織的に統一性の高い政党」への有権者の選好と同根のものだと私は思う。現在の自民党は派閥が弱体化し、長老の介入が制度的に阻止され、党内闘争が抑圧された「ねじれのない政党」になっている。公明党共産党が鉄壁の「一枚岩」の政党であるのはご案内の通りである。おそらく日本人は今「そういうもの」を求めているのである。そして、「百家争鳴」型政党(かつての自民党や、しばらく前の民主党)から「均質的政党」へのこの選好の変化を私は「新しい傾向」だとみなすのである。

では、なぜ日本人はそのような統一性の高い組織体に魅力を感じるようになったのか。それは人々が「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を政治に過剰に求めるようになったからだ、というのが私の仮説である。

採択された政策が適切であったかどうかはかなり時間が経たないとわからないが、法律が採択されるまでの時間は今ここで数値的に計測可能である。だから、人々は未来における国益の達成を待つよりも、今ここで可視化された「決断の速さ」の方に高い政治的価値を置くようになったのである。「決められる政治」とか「スピード感」とか「効率化」という、政策の内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのは私の知る限りこの数年のことである。そして、今回の参院選の結果は、このような有権者の時間意識の変化をはっきりと映し出している。

私はこの時間意識の変化を経済のグローバル化が政治過程に浸入してきたことの必然的帰結だと考えている。政治過程に企業経営と同じ感覚が持ち込まれたのである。

「短期的には持ち出しだが、長期的に見れば孫子の代に見返りがある」という政策は、国民国家にとっては十分な適切性を持っているが、株式会社にとってはそうではない。企業活動は今期赤字を出せば、株価が下がって、資金繰りに窮して、倒産のリスクに直面するという持ち時間制限のきびしいゲームである。「100年後には大きな利益をもたらす可能性があるが、それまでは持ち出し」というプロジェクトに投資するビジネスマンはどこにもいない。

学術研究でも話は変わらない。「すぐには結果を出せないが、長期的には『大化け』する可能性があるプロジェクト」には今は科学研究費補助金もおりないし、外部資金も手当てがつかない。研究への投資を回収するまでのデッドラインが民間企業並みに短くなったのである。

その「短期決戦」「短命生物」型の時間感覚が政治過程にも入り込んできたというのが私の見立てである。短期的には持ち出しだが100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない。

だが、日本人が未来の見通しについてここまでシニカルになったのは歴史上はじめてのことである。それがグローバル化して、過剰に流動的になった世界がその住人に求める適応の形態である以上、日本人だけが未来に対してシニカルになっているわけではないにしても、その「病識」があまりに足りないことに私は懸念を抱くのである。

古人はこのような未来を軽んじる時間意識のありようを「朝三暮四」と呼んだ。私たちは忘れてはならないのは、「朝三暮四」の決定に際して、猿たちは一斉に、即答した、ということである。政策決定プロセスがスピーディーで一枚岩であることは、それが正しい解を導くことと論理的につながりがないということを荘子は教えている。