ソロー『森の生活』

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

ヘンリー・D・ソロー『森の生活(上)』(岩波文庫)より引用。

私自身の折りにふれての経験によると、たとえ気の毒な人間嫌いや、ひどい憂鬱症にかかった者でも、このうえなく親切でやさしい、けがれのない、心の励みになる交際相手は、自然界の事物のなかに発見できるものである。「自然」のまっただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間は、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。かつては、健康でけがれのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。単純な、勇気のある人間は、なにがあろうとむやみに低俗な悲哀に打ちのめされたりはしない。四季を友として生きるかぎり、私はなにがあろうと人生を重荷と感じることはないだろう。わがマメ畑をうるおし、私を家に閉じこめている今日のおだやかな雨は、決してわびしくも憂鬱でもないばかりか、私にとってもためになるものだ。雨は畑の草取りをさまたげているが、草取り以上の価値をもっている。万一雨が降りつづいて、土のなかの種が腐り、低地のジャガイモがだめになったとしても、高地の草にはいいわけだし、草にとっていいことなら、私にだっていいだろう。(236-237頁)

私は、さびしいと思ったことも、孤独感にさいなまれたこともまったくなかった。ただ一度だけ――森に住みはじめてから二、三週間たったころだった――おちついた健康な生活を営むには、やはり身近なところに人間がいなくてはならないのではないか、という疑いの念に、一時間ばかりとりつかれたことがある。ひとりでいるのが、なにか不愉快だった。しかし同時に、私は自分がいくらか狂気じみた気分になっていることを意識しており、まもなく回復することもわかっていたようだ。そんな気分に囚われているあいだ、雨がしとしとと降りつづいていたが、突然私は「自然」が――雨だれの音や、家のまわりのすべての音や光景が――とてもやさしい、情け深い交際仲間であることに気づき、たちまち筆舌につくしがたい無限の懐かしさがこみあげてきて、大気のように私を包み、人間が近くにいればなにかと好都合ではないかといった先ほどの考えはすっかり無意味となってしまい、それ以来、二度と私をわずらわせることはなかったのである。(237頁)

私は、大部分の時間をひとりですごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、ひととつきあえばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいるのが好きだ。孤独ほどつきあいやすい友達には出会ったためしがない。われわれは自分の部屋にひき籠っているときよりも、そとでひとに立ちまじっているときのほうが、たいていはずっと孤独である。考えごとをしたり仕事をしたりするとき、ひとはどこにいようといつでもひとりである。孤独は、ある人間とその同胞とをへだてる距離などによっては測れない。ハーヴァード大学のにぎやかな寮の一室にいるほんとうに勤勉な学生は、砂漠の修道者とおなじように孤独である。農夫は一日じゅうひとりで畑や森にいて、耕したり木を伐ったりしているが、少しもさびしがったりはしない。仕事に熱中しているからだ。ところが夜、家に帰ってくると、ひとりで部屋に座ってもの思いにふけることができず、「みんなに会える」ところへ出かけていって気晴らしをし、昼間の孤独の埋め合わせになりそうだと思うことをせずにはいられないのである。だから彼には、どうして学生がひと晩じゅう、おまけに昼間の大部分をひとりで家のなかに座ったまま、退屈もせず「気が滅入り」もせずにすごせるのか、不思議でならないのだ。学生は家のなかにいても、じつは農夫とおなじようにやはり自分の畑で働き、自分の森で木を伐っているのだということ、彼もまた農夫とおなじような気晴らしやつきあいを(もっと凝縮したかたちではあるが)求めているのだということが、農夫にはどうしても理解できないのである。(244-255頁)

人間同士の交際は、一般にあまりにも安っぽすぎる。われわれはたがいを益する新しい価値を身につけるためには、ろくに時間を使わなかったくせに、ほとんど間断なく顔をつきあわせている。一日三回、食事だといっては集まり、たがいに鼻もちならないカビの生えた古チーズ――つまりはわれわれ自身――をそのつど相手にさし出す。そこでわれわれは、この頻繁な出会いをなんとか我慢のできるものにし、公然と戦争をひき起こさないですむように、礼儀作法と呼ばれる一連の規則をつくらなくてはならなかった。われわれは郵便局や親睦会で、また、毎晩のように炉辺で顔をあわせる。われわれは肩を寄せあって暮らし、たがいに邪魔をしあい、たがいにつまずきあう。思うに、こうしておたがいへの尊敬心を失っていくのだ。もっと出会いの回数を減らしたところで、たいせつな、心のこもったつきあいは十分可能であろうに。工場で働く娘たちのことを考えてみたまえ――彼女らは夢のなかでさえ、決してひとりではいられないではないか。むしろ私が住んでいる場所のように、一平方マイルにひとりの住人しかいないほうがいい。人間の価値は皮膚にあるのだから、さわってみなくてはわからない、というわけではあるまい。(245-246頁)