学問の下流化

学問の下流化

 竹内洋『学問の下流化』(中央公論新社、2008年)より引用。

 

「フォーク人文社会科学というのは、大衆の常識のなかにある文学や哲学、社会学のことをいう。誰でも詩人であり、誰でも哲学者であり、誰でも社会学者であるというときの哲学や社会学がフォーク人文社会科学である。」(11頁)

 

「フォーク人文社会科学とメディア人文社会科学、ジャーナリズムの複合支配の中で、学者がメディア人文社会科学に進出することでフォーク人文社会科学にすりよるうけ狙いのポピュリズム化の危険はますます大きくなっている。丸山はその兆しと危惧をはやくからつぎのように指摘していた。「芸能人」の文化人への「昇格」と、他方での文化人の芸能人化(マス・メディアへの依存性の増大)、と(『増補版 現代政治の思想と行動』)。そのような兆しと危惧が一九七〇年以後ますます拡大している。」(13頁)

 

「いまの人文社会科学系学問の危機は大衆社会のなかでの学問のポピュリズム化、つまり学問の下流化と、こうした大衆的/ジャーナリズム的正統化の時代のなかで、ういてしまう学問のオタク化である。」(13頁)

 

「人文社会科学系学問のオタク化とは専門学会内部、それも一部学会員だけの内輪消費のためだけの研究という自閉化のことをいう。かくて認識の明晰化の手段であったはずの方法や技法の洗練への志向が、知的大衆や他の学会からの侵犯を許さないための「自己防衛」や学会内部の「知の支配」の手段のようになってしまう荒廃も生じている。専門学会誌に発表される論文は、学会文法にそうことによって、手堅いだけで知的興奮を伴うものは少ない。挑戦的な問題提起型論文は学術的ではないと論文査読者から差し戻されやすい。学問の洗練という名で実のところは異端と多様性を排除する「知の官僚制化」が進んでいる。」(13-14頁)

 

「わたしの知っているある若手学者は、最近、こんなことをわたしに漏らした。学会誌などに投稿することはもうやめにして、専業文筆家(メディア人文社会科学者)になりたい、と。これを単に有名願望や金銭志向とだけとらえるべきではないだろう。学会を中心とした人文社会科学知が優秀でアンビシャスな知的青年の冒険心と興奮をとらえない事態のあらわれとしてみるべきではなかろうか。」(14頁)

 

「この危機を徹底的に認識することなくして、人文社会科学の再構築はありえない。パブリック・サイエンスとしての復活はおろか、「専門職のための学問」や「政策のための学問」の輪郭も定まらない。無用の用などと、のんきでいいきな仲間うち的な正統化をしている場合ではないはずとおもうのである。」(14頁)

「娯楽」を「生きがい」にする人たち

永井均小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』河出書房新社、1998年

「ジャーナリズムで取り上げられる事件やそれをめぐる言説は、多くの一般人にとって異次元の出来事であり、はっきり言ってすべて娯楽にすぎない。

 一方、新聞・雑誌が構成する事件空間や価値空間こそが真の世界だと信じて、その実存性を疑わずにその中で生きて行く人たちもいる。そういう世界の中で憤慨してみたり、戦闘的なそぶりを見せたりする。一種の芸なのだろう、と思うのだが、どうもそうとばかりはいえず、本気でそういう世界の中で生きてしまう人もいるらしい。むしろ一種の宗教なのかもしれない。たしかに、中にいる人はけっこう楽しそうだ。たぶん、ある種の生きがいが与えられるにちがいない。」(永井均、p.59)

「僧侶」としての教師の役割

永井均小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』河出書房新社、1998年

ニーチェ的に考えると、教師というのはニーチェの『道徳の系譜学』で言う僧侶に当たるわけですよ。ニーチェの言い方を使うと、僧侶というのは弱者の弱みに付け込んで傷口を治すふりをして毒を入れる。「治すふり」と言っても実際にも治すわけです。生き甲斐を与えるわけだし、苦しみにある種の理念を与えて生に意味を与えるわけだから、いいことをしているわけです。でもそのことによって弱者を罪人(つみびと)に仕立てあげ、その罪が許されるにはどうやったらいいかという秘密を握っているのが僧侶なんですね。僧侶はそのことによって、弱者にある超越的な理念を教えると同時に、現世で力を得るという構造になっている。教師はそういう役割を必然的に持つ。」(永井、pp.17-18)

 

「ぼくは学習塾の教師をやっていた長い経験があるんですけれども、子供によって能力の差がすごくあるんですが、「きみはバカなんだから」とか「おまえはだめなんだ」とか絶対言っちゃいけない。どう言うかというと、「努力が足りない」と言うわけです。「もうちょっと頑張れ」ということを何度も言うわけね。「やってないからできないので、もうちょっとやれば必ずできるようになる」と。でも、これははっきり嘘なんですね。本当はやってもできないんですよ。あるいは、やるということができない。だけれども、それは言ってはいけないんですね。「もう少し頑張れ」と言って、少しでも頑張らせる。そうするとその子は、自分には能力がないということには気がつかないで頑張れない人間に仕立てあげられていくわけです。そして頑張りという超越的価値を教える権力をもっているのは先生なんですね。ちょうど僧侶が弱者を罪人に仕立てあげるのと同じような形で、“努力の足りない子”というものをつくり出していく。

そういうシステムがあると思うんです。先生というのは、親とか会社の上司とか、ほかのいろいろな関係とは違う側面があると思っているわけです。」(永井、pp.18-19)

北原みのり『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』引用

毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記

「見知らぬ男女が出会う婚活サイトは、身も蓋もないほど「自分が商品」であることを意識させられる場だ。年齢、年収、住んでいる場所、家族構成に顔写真。プロフィールの情報が全て「条件」として交換されていく。」(p.46)

「佳苗のドライさと、その結婚観は、女にとっては、奇異に映るものではないのかもしれない。実際に婚活サイトを見ても、女性が手料理自慢をしたり、自らを癒し系とアピールしたりなど、分かりやすい女らしさを売りにし、高所得男性を求めるのが、“一般的”である。対して男は、「白馬の王子様、ここにいるよ」という50代や、「手料理、食べたい」とかいう30代フリーターが、自分より10も20も若い女性を求めるなど、現実離れした状況が横行している。まるで全ての男性がカモであるかのような気すらしてくるほどだ。」(p.87)

「男は佳苗が不美人故にこの事件に関心を持たないが、女は佳苗が不美人だからこそ、関心を持つのかもしれない。この社会に生きていれば、不美人であることの不遇を、女は痛いほど感じている。女は、男のようにブスを笑えない。自分がブスだ、と自虐はしても、他人のブスは笑わない。それは天につばするようなものだから。そんな社会で、佳苗は、軽々と“ブス”を超えたように見えるのかもしれない。容姿を自虐することなく、卑屈になることもなく、常に堂々と振る舞う佳苗。不美人を笑う男たちを嘲笑うように利用したのは、不美人の佳苗だ。そこに女は、佳苗の新しさをみる。」(p.88)

「絶対に潤うことのない欲望を抱え、キリキリした思いで、だけど身の丈と理想が追いつかないちぐはぐな佳苗。欲望を満たすために佳苗が取った「援助交際」は、ある世代にとって、この社会との“付き合い方”でもあった。だから女たちは、佳苗に、自分に、問うのだ。佳苗の罪は何だろう。私と佳苗の違いは何だろう。」(p.91)

米本昌平『地球環境問題とは何か』(岩波新書)

地球環境問題とは何か (岩波新書)

「この本の中で私は、地球温暖化論の科学的根拠が曖昧であることを指摘はするが、それは私が、それを理由に、世界が地球環境問題の対策に邁進することに反対であることを意味しない。それどころか、私の意図するところはその逆である。歴史のうねりは、その時代その時代の多くの人々が確信し共有する価値や世界観によって作り出されてゆく。そして長い時間をおいてみれば、どのような価値観や世界観が選びとられるのかについても根拠は、あいまいである場合が多い。それゆえ、地球環境問題の対策に没頭する社会に突入することに疑義をさしはさむような立場、たとえばコスト・ベネフィット論、つまり放置しておいた場合の害とこれへの対策のための投資コストを比較考量するような立場に、私は与しない。現代社会は、地球環境問題という新しい課題を発見し、これへの対応をやれるだけやってみたらよい。こういう視角から社会も国も企業も個人も揉まれ、もう一段高い質の社会に到達すればよいのである。世界がこの良性の恐怖から当分醒めないことを望むのみである。」(48頁)