Black Hawk Down

観終わったあとで、Hootの下のセリフの意味が理解できました。

Hoot: "When I go home people'll ask me, "Hey Hoot, why do you do it man? What, you some kinda war junkie?" You know what I'll say? I won't say a goddamn word. Why? They won't understand. They won't understand why we do it. They won't understand that it's about the men next to you, and that's it. That's all it is."

「地元に帰ればみんな俺にこう聞く。『お前はなんで戦争なんか行くんだ?戦争中毒なのか?』俺は何も答えない。彼らにはわかりっこないからさ。なんで俺たちが戦ってるのか。俺らは隣りで戦ってる奴のために戦ってる。ただそれだけなんだ。」

鳥飼玖美子『国際共通語としての英語』書評

国際共通語としての英語 (講談社現代新書)

「文法か?コミュニケーションか?」という二項対立は不毛で、「会話のためにこそ文法は必要」という筆者の主張の根幹は、前著『TOEFLTOEICと日本人の英語力』(講談社現代新書)から一貫していて、首肯できる。「グローバル化した世界で必要なのは、読む力と書く力」(121-123頁)、「『間違いを気にせず自分の英語で=テキトーな英語でよい』ではない」(72頁)というのも、その通りだと思う。

ただ、教え子の教育実習を参観して「ショックだった」と述べているくだりは、教育現場がどんなに悲惨なことになっているのかは結構有名な話なのに、今までそんなことも知らないで「文法は重要」と発言していたのかと知り、逆にショックだった。

高校生たちは百パーセント受け身で授業を受けており、熱心な生徒は板書をノートにひたすら写し、大半の生徒はつまらなそうにぼんやり聞いているだけ。発言の機会は授業中に一回あれば良い方で、ほとんどの生徒は何も英語を口にすることなく授業を終えていました。(31頁)

なーんだ、そういうこと。教育実習というシステムは従来型の指導方法を再生産することになっていて、英語教育の改革などは教員養成制度から変えない限り絵に描いた餅なのだ、とショックを受けました。(31-32頁)

また、「国際共通語としての英語」が必要であることを示す例として、自身の博士論文を出版する際の海外の人々とのやりとりの話を述べている点(78頁)も、一般の人にとってはほとんど全く縁のない話で、あまり説得力は感じられない。言語学の最先端の先行研究についての解説も、新書がターゲットとする一般読者を遠ざける要因になり得る。

要するに、「あまり教育現場に詳しくない学者が高所から語っている評論家的英語教育論」の観が拭えないのである。主張していることは論理的でその内容のほとんどには同意できるものの、教育現場にいて何とかしなくてはと思いつつも、再生産システムから抜け出せず苦悩している教員からも信頼されるような議論を、これから展開してくれればと著者に期待している。

英語ができないのは自分のせい

目にあまる英語バカ

日本の英語教育が正しい、とはいわない。だが、あなたね、そもそも「中高大と一〇年も習った」のに、というのが真っ赤なウソなのだ。というより、あまりにも人口に膾炙しすぎた錯覚なのである。ちょっと胸に手を当てて、考えてみて。あなた、ほんとうに「一〇年間」ちゃんと英語を勉強しましたか。毎日一時間でも二時間でもいい、一〇年やったですか。一年でもいい。やったですか。どこの人間だ、おれは。いやわずか半年でもいい。やっちゃおらんでしょうが。

英語ができないのは教育が悪いからだ、と責任転嫁してもなにもならない。はっきりいっておくが、英語ができないのは自分のせいである。できる人間は自分で勉強したのである。英語教育が影響ないとはいわない。教師によって科目に興味が持てなくなる、ということもたしかにあろう。あるが、所詮、それもまた責任転嫁でしかない。嫌いな教師がいても、自分で勉強するという道が閉ざされたわけではないからである。ようするに、自分が勉強をしなかっただけである。そう自覚する以外にない。先生が悪かろうと、教育がなってなかろうと、自分ができない責任をかれらがとってくれるわけではないからである。ただ自分に言い訳をしているだけだ。

勢古浩爾『目にあまる英語バカ』150〜151頁より)

「わたしはマララ」

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

「どの子がマララだ?」男が厳しい声でいった。
みんなは黙っていたけど、何人かの目がわたしをみた。それに、顔を隠していないのはわたしだけだった。
男は黒いピストルを構えた。あとでわかったけど、コルト45だったらしい。何人かが悲鳴をあげた。モニバがいうには、わたしはモニバの手をぎゅっと握った。
友だちの話によると、男は続けざまに三発撃った。一発目はわたしの左目のわきから首を通って、左肩のあたりで止まった。わたしはモニバのほうに倒れた。左の耳から血が流れた。残りの二発はそばにいた仲間を襲った。一発はシャツィアの左手に、もう一発は、シャツィアの左肩を貫通して、カイナート・リアズの右上腕部に当たった。
あとで友だちからきいた。男のピストルを持つ手は震えていたそうだ。
病院に着く頃には、わたしの長い髪も、モニバの膝も、血まみれになっていた。

どの子がマララかって? マララはわたし。そしてこれがわたしの物語。
(20頁より)

思考停止する「浅はかな」日本

朝日新聞2014年2月15日のインタビューでの是枝裕和監督の言葉より。『誰も知らない』の時からのファンですが、本質が見えている数少ない方の一人だと思います。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S10979945.html?_requesturl=articles/DA3S10979945.html&iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S10979945

「昔、貴乃花が右ひざをけがして、ボロボロになりながらも武蔵丸との優勝決定戦に勝ち、当時の小泉純一郎首相が『痛みに耐えてよく頑張った。感動した!』と叫んで日本中が盛り上がったことがありましたよね。僕はあの時、この政治家嫌いだな、と思ったんです。なぜ武蔵丸に触れないのか、『2人とも頑張った』くらい言ってもいいんじゃないかと。外国出身力士の武蔵丸にとって、けがを押して土俵に上がった国民的ヒーローの貴乃花と戦うのは大変だったはずです。武蔵丸や彼を応援している人はどんな気持ちだったのか。そこに目を配れるか否かは、政治家として非常に大事なところです。しかし現在の日本政治はそういう度量を完全に失っています」

「例えば得票率6割で当選した政治家は本来、自分に投票しなかった4割の人に思いをはせ、彼らも納得する形で政治を動かしていかなければならないはずです。そういう非常に難しいことにあたるからこそ権力が与えられ、高い歳費が払われているわけでしょ? それがいつからか選挙に勝った人間がやりたいようにやるのが政治だ、となっている。政治の捉え方自体が間違っています。民主主義は多数決とは違います」

「政治家の『本音』がもてはやされ、たとえそれを不快に思う人がいてもひるまず、妥協せずに言い続ける政治家が人気を得る。いつから政治家はこんな楽な商売になってしまったのでしょう。『表現の自由』はあなたがたが享受するものではなくて、あなたが私たちに保障するものです。そのためにはあなたの自己表出には節度が求められるはずです」

同調圧力の強い日本では、自分の頭でものを考えるという訓練が積まれていないような気がするんですよね。自分なりの解釈を加えることに対する不安がとても強いので、批評の機能が弱ってしまっている。その結果が映画だと『泣けた!』『星四つ』。こんなに楽なリアクションはありません。何かと向き合い、それについて言葉をつむぐ訓練が欠けています。これは映画に限った話ではなく、政治などあらゆる分野でそうなっていると思います」

「いまの日本の問題は、みんなが被害者意識から出発しているということじゃないですか。映画監督の大島渚はかつて、木下恵介監督の『二十四の瞳』を徹底的に批判しました。木下を尊敬するがゆえに、被害者意識を核にして作られた映画と、それに涙する『善良』な日本人を嫌悪したのです。戦争は島の外からやってくるのか? 違うだろうと。戦争は自分たちの内側から起こるという自覚を喚起するためにも、被害者感情に寄りかからない、日本の歴史の中にある加害性を撮りたい。みんな忘れていくから。誰かがやらなくてはいけないと思っています」

池内敏『竹島問題とは何か』引用

竹島問題とは何か

実のところ、これまでの竹島論争は、大げさにいえばあらゆる局面にそうした恣意性を強く孕んだ水準で推移してきた。つまりこの論争には学問的成果が反映されない局面が少なくなく、その具体例は本書中でも示されることとなると思う。おそらくは、竹島論争の問題点は、竹島領有権をめぐる意見対立が存在するところにあるのではなく、それら意見対立が学問的裏づけを欠如させたまま争点化されているところにこそある。学問的裏づけへの配慮を欠いているから、学問的には成り立たないことが明白な主張が再三再四蒸し返されて強弁され、堂々めぐりの議論が延々と続くことになる。

こうして日本でも韓国でも、史実から目をそらし、内輪受けはするが外へ出したらまるで通用しない水準の議論が繰り返されてきた。傍目には奇妙に映る論証も、同じ主張で固まった身内のあいだでは拍手喝采を浴びるから、さらに威勢のよい発言がなされ、その一方で、異論に対しては激烈で頑なな批判が繰り返されてきた。これでは「良い知恵」など得られようはずもない。こうした負の連鎖を断ち切って、この問題に解決の途を得るために、本書では、客観的な検証に耐えうる水準を意識しながら、竹島論争にかかわる史実を提示するよう心がけた。(7頁)

和解に至る知恵を創出するために、まずは自らに不都合な史実ともきちんと向き合う。目を背けない。相手側の主張にも耳を傾けるとともに、批判すべき点は、難詰するのではなく史実にもとづいて厳正に糺す。そうして、第三者の視線にも耐えうる意味ある相互批判を試みる。その上に立って、次の一歩をどのように踏み出してゆくか。選択される次の一歩が和解に至る一歩となるために、微力ながら本書を編んだ。(10頁)