「僧侶」としての教師の役割

永井均小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』河出書房新社、1998年

ニーチェ的に考えると、教師というのはニーチェの『道徳の系譜学』で言う僧侶に当たるわけですよ。ニーチェの言い方を使うと、僧侶というのは弱者の弱みに付け込んで傷口を治すふりをして毒を入れる。「治すふり」と言っても実際にも治すわけです。生き甲斐を与えるわけだし、苦しみにある種の理念を与えて生に意味を与えるわけだから、いいことをしているわけです。でもそのことによって弱者を罪人(つみびと)に仕立てあげ、その罪が許されるにはどうやったらいいかという秘密を握っているのが僧侶なんですね。僧侶はそのことによって、弱者にある超越的な理念を教えると同時に、現世で力を得るという構造になっている。教師はそういう役割を必然的に持つ。」(永井、pp.17-18)

 

「ぼくは学習塾の教師をやっていた長い経験があるんですけれども、子供によって能力の差がすごくあるんですが、「きみはバカなんだから」とか「おまえはだめなんだ」とか絶対言っちゃいけない。どう言うかというと、「努力が足りない」と言うわけです。「もうちょっと頑張れ」ということを何度も言うわけね。「やってないからできないので、もうちょっとやれば必ずできるようになる」と。でも、これははっきり嘘なんですね。本当はやってもできないんですよ。あるいは、やるということができない。だけれども、それは言ってはいけないんですね。「もう少し頑張れ」と言って、少しでも頑張らせる。そうするとその子は、自分には能力がないということには気がつかないで頑張れない人間に仕立てあげられていくわけです。そして頑張りという超越的価値を教える権力をもっているのは先生なんですね。ちょうど僧侶が弱者を罪人に仕立てあげるのと同じような形で、“努力の足りない子”というものをつくり出していく。

そういうシステムがあると思うんです。先生というのは、親とか会社の上司とか、ほかのいろいろな関係とは違う側面があると思っているわけです。」(永井、pp.18-19)