「SNSで子どもの悪口を晒す親の裏切り」(Yahoo! Newsより)
以下、記事より引用。
「娘が自分に書いた怒りの手紙をFacebookに載せて、娘が愚かで過剰反応していると書く母親」
「10代の息子のひどい成績通知書を載せて息子のダメっぷりをからかう母親」
「子どもが自分に私的に書いた手紙や、子どもが知らないところで写真や動画を公開することや、子どもとの争いや個人的なことを公開するのは笑えません。特にそうした情報を公開されることを恥ずかしいと思う年頃の子どもに対しては。」
「それは親の裏切りです。あなたは子どもの怒りを取り上げてそれをからかっているのです。自分が子どもの頃、親に理解されなかった時のことを思い出して下さい。」
「子どものこうした個人情報を繰り返しシェアする人たちは、しばしば子どもが言うことを聞かなくて困るとか、自分たちに対して敬意がないと文句を言います。口答えするとかドアをバタンと閉めるとか、友達と電話してて話しかけられても見向きもしないとか。でも、大人が成熟した思いやりのある態度を明らかに取れていない時に、なぜ子どもがそのように振る舞うことを期待できるのでしょうか?そこには相手への信頼がありません。敬意とは要求するものではないのです。自分の努力で勝ち取らなくてはなりません。」
「もし私が相手に敬意を示してほしければ、私自身もその人に対して敬意を持っていることを示します。それは人を区別するという意味ではありません。単にその人をバカにしたりからかったりしないという意味です。ましてやそれをSNS上でやるなんてもってのほかです。」
「親戚も含めて誰もが見られる場所に子どもの個人的なことを載せることは、子どものプライバシーや自立に対する敬意の欠如を意味します。親の皆さん、もし自分の子どもに信頼され尊敬されたいのなら、それはやめるべきです。」
「あなた自身がつくったこの無関心な世界によって、あなた自身も誰かに空気扱いされている」(村本大輔)
村本大輔『おれは無関心なあなたを傷つけたい』ダイヤモンド社、2020年より。
志村けんさん以外でもたくさんの人たちがコロナで亡くなり、テラスハウスの女の子以外でもたくさんの人たちがネットの誹謗中傷で命を断っている。
知っている人が死なないと意識しない。有名な人が死なないと意識しない。
有名人が亡くならなくてもコロナを自分ごとにし、有名人が自殺しなくてもそれを想像し、危機感を感じられないのだろうか。
なんなら、電車で誰かが飛び降りて死んだら「どこで死んでんだよ、迷惑かけるなよ」と言うような人たちもいる。誰かが飛び降り自殺をしようとしたら、スマホのカメラを向ける人たちもいる。仲間に承認されたくて必死なんだろう。(pp.265-266)
無関心な人たちは孤独だ。それは、あなた自身がつくったこの無関心な世界によって、あなた自身も誰かに空気扱いされているからだ。
だから孤独を感じ、誰かの死すらも「いいね」をもらうために利用する。知らない人たちは風景だから。死のうが生きようが、風景だから。
お前が誰かを風景にするということは、お前も誰かに風景にされるということだ。風景にしていいということは、自分の悲劇も風景にされるということになる。
風景にしていいというルールは、すべてが自己責任になる。「知らんがな、お前のことだろう」は、お前が困っているときにも「知らんがな、お前のことだろう」になる。
風景にするということは風景にされるということ。お前があいつに無関心だということは、あいつもお前に無関心だということ。だから日本は先進国の中で若者の自殺率が1位なのかもしれない。(p.266)
「大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になること」(いわさきちひろ)
人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。
もちろんいまの私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで、私は二十年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。
これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。
「情報とは誰かの痛みだ」(村本大輔)
村本大輔『おれは無関心なあなたを傷つけたい』ダイヤモンド社、2020年より。
僕たちは、よくニュースで「情報」を得るとか、熊本の被災地の「情報」を教えてとか、よく「情報」という言葉を使う。テレビや新聞、ネットニュースからも「情報」を得る。
僕が現場に行って知ったのは、僕が「情報」という言葉を使っていたその実態は「痛み」だった。誰かの痛みだった。(p.48)
テレビのニュースを見て情報を勉強する?
馬鹿なことを言っちゃいけない。そんなもんじゃない。ニュースは誰かの痛みをずっと伝えている。
しかし、コメンテーターはコメンテーターとして処理し、視聴者の大人は大人として処理をする。ニュースを語るものと知るものごっこのために、エンタメとして消費されていく。誰かの痛みが。(p.50)
声なき声ではない、聞こえているのに聞こえないふりをしているのはおれたちだ。それはただの情報だ、と理由をつけ、しょうがない痛みだと切り捨ててしまう社会に、日々変化しているような気がする。
僕らが知るべきは、大人が教えるべきは、情報ではなく「痛み」だ。僕らがなるべきは、情報を知っている人間でなく、「痛み」を知っている人間だ。(pp.51-52)
「死ぬことと生きることは同じ」(金子哲雄)
金子哲雄『僕の死に方:エンディングダイアリー500日』小学館文庫、2014年。
友人に教えてもらって読み始めた本書。面白くて一気に読了してしまった。金子さんの死の受け入れ方がもう見事としか言いようがない。もちろんそれは周りの方々にしかわからない苦しみや献身があって可能になったものではあるけれど、自分の死から逃げずに向き合い、残された時間を「仕事を続けること」に費やして、これこそが自分の死に方と固く決意して死へと向かった姿は、やはり見事としか自分には言いようがない。
近代文明は死を汚いもの、穢れたものとして遠ざけ、可能な限り人々に見ないようにさせてきた。だから、多くの人は死について深く考えることをしない。だから、いざ死を前にしたとき恐れ、うろたえ、泣きわめき、暴れる。「自分にとって生きることとは何だったのか」「自分が死ぬとはどういうことなのか」を省察する間もなく、後悔して死んでいく。
「死について考えるのは、死ぬためではない。よりよく生きるためだ」(橋爪大三郎『死の講義:死んだらどうなるか、自分で決めなさい』ダイヤモンド社、2020年、p.36)
「死を意識するだけで美しい老いがやってくるわけではないということだ。しかし、老醜を避けるための少なくとも一つの必要条件が、「メメント・モリ(死を想え)」であることは確かだ」(西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年、p.143)
死に至るまでの金子さんの500日の実践は、死について考えるとはどういうことなのかをはっきりと示してくれている。この本は、同じ病に苦しんでいる方々だけでなく、死について日頃みじんも考えることのない多くの人にも本当に大切なことが何なのかを教えてくれる。そんな素晴らしい本だった。
金子さんが闘病中にずっと食べたがっていてかなわなかった「アーモンドピーク」を、亡くなった後に奥様がイオンで見つけて号泣するシーン(pp.178-179)は感情を揺さぶられる。一方で、苦しい闘病のことばかりでなく、お得情報や人間ウォッチの中に金子さんのユーモアセンスが表れており、特に
「ランニングコスト」というのは馬鹿にならない問題で、私の知り合いでランニングコストが高い女性と結婚した人はみんな不幸になっている。
どんな奥さんと結婚するかで人生は変わる。それは真理だと思う。(p.51)
という箇所を読んだ時は、声を上げて笑ってしまった。自分にも心当たりがあったからである。
「「あすなろ」とは井上氏の人間愛の象徴」(亀井勝一郎)
亀井勝一郎「『あすなろ物語』について」(井上靖『あすなろ物語』新潮文庫、1954年)より。
やがて人間は一つの諦念に達するようである。「樹木は伸びても天に達しないことになっている」というのがそれである。「あすなろ」の悲しみは、永久に檜になれない悲しみにはちがいないが、「天に達しない」人間の限界への認知をひそかにふくみながら、しかも「天に達しよう」ともがく青春の憧憬に宿る美しい悲しみと考えてもよかろう。未来に対しては誰も自信はないのだ。自信とは空想である。それにも拘らず「檜」であることをのぞむ人間の努力と夢の切なさを、「あすなろ」の説話は象徴しているようである。人間はこの意味においていじらしい存在だ。自他をふくめてそれをみつめているところに、この作品全体をつらぬく暖さがある。(p.252)
「あすなろ」とは云わば井上氏の人間愛の象徴のようなものだ。「あすなろ」であるところの人間によって、自分という人間もまた育てられ、人間を知ってきたということだ。ここには告白調はすこしもない。しかし今まで述べてきたような意味で、この作品は作者の感受性の劇の告白だと云っても差支えあるまい。幼年、少年、青年、壮年の各時期にわたって、心にうけた様々の人生の屈折を語っているのだ。「思い出す人々」を通じて、心に感受したものを、改めて反芻しているような作品である。(p.255)
そういえばこの作品には「悪人」はひとりも登場しない。それぞれに善意の人たちばかりだ。「あすなろ」とは井上氏の人間愛の象徴だといった意味が、読み終ると一層はっきりするように思う。それはまた、心に刻印され、或いは感受してきた内的イメージを、大切に育てあげたような作品であるということだ。(p.256)
「いつまでもデブと思うなよ」(岡田斗司夫)
岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』新潮新書、2007年より。
ダイエット法で成功した人は、二〇〇人のうち一〇人。つまり成功率は五%。
この場合の”成功”というのは、いちおう「目標体重に達した人」という意味だ。一〇〇人のうち九五人が目標体重に達する前に挫折する。理由は「ダイエットを続けられないから」。
そして、わずか五%の「成功者」の中でも、その後も体重の維持に成功した人は、二〇〇人のうちでわずか一人。たった〇・五%しかいない。(p.14)
つまり、ダイエットの失敗というのは「やせないこと」ではなく、「続けられないこと」なのだ。いかに持続することが難しいかがわかる。(中略)その結果、学んだこと。「続けられないダイエットは意味がない」「ガマンだけで楽しくなければ、人間は続けることはできない」
続けること。これが、ダイエットにとって最大の課題なのだ。(pp.14-15)
カロリー制限を開始してから二ヶ月が過ぎる頃。(中略)
こんな時期、突然というか発作的に激しい飢餓感に襲われた。毎日一度ぐらい、空腹感と落ち込みの感情が同時に、強烈に襲ってくるようになったのだ。考えてみれば当り前で、簡単に減らすことができる内臓脂肪もすっかり底をついてしまい、渋々、皮下脂肪を燃やし始めた体は(勝手に!)生命の危機を感じ始めているらしい。やせようとする私の意志や行動を、あらゆる方法で妨害してくる。(pp.142-143)
結論から言うと、この「飢餓感と落ち込み」は一~二週間続く。はっきり言って、かなり辛い。ダイエットで二~三ヶ月で挫折する人が多いのは、みなこの「七五日目の変化」に抗えないせいだろう。体は、あらゆる信号を使って、元の太った体重を取り戻そうと、欲望や不安をかきたててくるのだ。
しかし、一~二週間我慢しさえすれば、この「飢餓感と不安」はウソみたいになくなる。体がついに抵抗をやめて、「やせること」を認めるようになる。(p.144)
私たち太っているタイプの人間は、大部分が欲望型人間だ。体の声ではなく、心の叫び、欲望で動く。「TVで紹介されたアレが食べたい!」という脳的な欲求がエネルギー源だ。だから欲望型人間はだいたい精力的だ。
それに対して、ずっとやせている人たちはだいたい「欲求型人間」だ。欲望があまり強くない、というより「体の要求してくる声」が大きすぎるので、自分の欲望があまり感じられない人たちだ。だから欲求型人間は、どことなく上品で受身である。(p.197)