David R. Smock, Religious Perspectives on War, Revised ed., Washington D.C.: United States Institute of Peace, 2002 (「宗教的視点から見た戦争」)書評

sunchan20042005-02-05


「正戦論(just war theory)」について書かれたものを読んだのは本書が初めて。「正戦論」の基準として、戦争が始まる前(Jus ad Bellum)のものと戦争が始まったあと(Jus in Bello)のものがあり、前者が「武力行使主体の正統性」(legitimate authority)「正当な理由」(just cause)「平和的な意図」(peaceful intention)「最終手段としての武力行使」(last resort)「成功確率の高さ」(reasonable hope of success)の5つ、後者が「手段や戦略と達成目標の釣り合い」(proportionality)と「非戦闘員の保護」(noncombatant immunity)の2つがあることを学んだ。

しかし、上記の分類を学んだこと以外は、あまり得るもののなかった本であった。現在の正戦論が国家間紛争を前提にしているために、テロや内戦など非国家主体(non-state actor)による紛争に適用するためには再編成が必要だという論はわかるが、正戦論になんでもかんでも期待を押し付けるのは間違いだと思う。不幸にして起こってしまった戦争だが、戦争だからといって何をやってもいいというわけではないという考え方がその根底にあるはずで、その意味での正戦論は湾岸戦争では――不充分ながらも――非常に大きな役割を果たした。上に挙げた7つの基準は、米軍がイラク武力行使をするにあたって軍事指導者が常に意識していたものであり、今後起こりうる戦争もこれらの基準から自由であることはまず不可能である。

しかしそれ以上の役割を正戦論に期待するのは無理というものだろう。正戦論がしばしば武力行使正当化の口実として利用されてきたという批判はその通りかも知れないが、それは戦争遂行者に自省の契機を与えるのに大きく貢献している基準が、他方で必然的に抱えるリスクとみなすべきだろう。また、正戦論へのアンチテーゼとして「正しい平和論(just peace theory)」という考えが本書の中で出てくるが、自分にはこれは全く的をはずしたものであるように感ぜられた。「正戦論はそれまでイラク帝国主義国から受けてきた長年の不条理に目を瞑っている」とか「正しい平和論は、正戦論とは違って、平和は可能であるという前提に立つ」などといった批判は、正戦論とはいかなるものかの理解を欠いた批判だと思う。それは正戦論が担う仕事ではない。不幸にして戦争が起こってしまった際の基準なのであるから、それに平和構築(peacemaking)の役割まで担わせようとするのは、明らかに正戦論への過剰な期待であり、かえってその利点を損なうものであると思う。

現在、「安全保障」という概念の拡散が続いている。70年代のオイルショックや近年の環境問題への意識の高まりにともなって、安全保障概念がどんどん拡散してきた。経済安全保障、石油(またはエネルギー)安全保障、それらを統合した「総合安全保障」、そして近年では環境安全保障や食の安全保障、究極的には人間の安全保障という概念まで現れるようになっている。これら個々の概念が大きな意味を持つものであることは間違いないし、従来の軍事偏重の国家安全保障ではカバーしきれないレベルの国家に対する脅威が生まれていることも事実だろう。しかしながら、これらの概念が「安全保障」という枠組みでとらえられることで、従来の狭い意味での安全保障の比重が薄れてしまうという結果に至っている。あとから安全保障問題として加えられてきた種々の問題は、安全保障問題としてではなく、別の枠組みで議論されるべきで、安全保障という概念は「parsimony(節制)」を保つべきではないかと論じる人も多数いる。正戦論という概念についてもこれと同じことが言えないだろうか。

本書は、キリスト教ユダヤ教イスラム教全ての立場からの参加者によって行われたシンポジウムでの議論を文章化したものである。異教間の対話(interfaith dialogue)の現実的な意義深さはよく伝わってきたが、理論的には少し浅い内容の本であった。(正戦論について最も著名なのは、Michael WalzerのJust and Unjust Wars: A Moral Argument With Historical Illustrationsだが、さすがにこれを読破するのは容易ではない…。)