クリフォード・ストール『インターネットはからっぽの洞窟』書評
- 作者: クリフォードストール,Clifford Stoll,倉骨彰
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 1997/01/01
- メディア: 単行本
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インターネットは21世紀のあらゆる難題を解決に導く万能薬になり得るどころか、使い方を誤ると人間の知的生産活動に取り返しのつかない弊害をもたらしかねないと警告する書。本書の前半部分では筆者のコンピュータへの批判が浅く表面的なものでしかないという印象を受け(例えば、コンピュータの音楽には魂がないとか、コンピュータの画像はありがたみに欠けるとかいった批判)、より思想的・哲学的な観点から徹底的にインターネットというもの(そしてそれに依存する社会)を批判してくれることを期待していた自分にとっては、失望させる内容だった。また、原書が出版されたのは1995年であるため、その時点で筆者が「コンピュータでできないこと」として本書で挙げているものは、今ではほとんど実現してしまっている。
しかし、後半部分では共感できる章が多く、特に第9章の「ハイテク教室の子供たち」と、第11章の「消えゆく図書館」の内容には非常に感銘を受けた。
確かにインターネットによって知は拡散した。ただしその拡散した知はあくまで「薄く広く」であって、それだけで知的な生産活動を意味するわけではないことは確かだ。むしろ、無意味な情報のゴミが大量に発生したせいで、真に価値のある情報を探し出す環境としては悪化していると見ることもできる。インターネットによって大衆は物知りで小ずるくなったかも知れないが、自然や人間に対する洞察力が深まったかどうかは非常に疑わしい。
「インターネットはからっぽの洞窟」とは言いえて妙だ。その中にあるのは人間の欲望と孤独が生み出した仮想現実があるばかりで、そこから真の知識が生まれる可能性は低い。伝統的な知的生産活動のインフラやツール(図書館、書籍など)が今後もなくなることはないと筆者が言うゆえんである。
印象的な箇所をいくつか抜粋してみよう。
コンピュータは、教える側にとっても困りものだ。カリフォルニア大学バークレー校のデイブ・キュダバック主任教授の天文学の授業は、じつに素晴らしい。彼のもとには世界各地の学生から電子メールで質問がたくさん寄せられてくる。しかし彼はそうした状況を憂慮している。『僕の時間は自分の学生のために使うだけで手いっぱいだ。こんな何百通もの電子メールに返事を出す時間がどこにあるって言うんだ』(203頁)
便利になったことがいいことばかりではないことの一例だろう。
たしかにインターネットを使えば、たいていの大学の授業内容を入手できる。でも、知識は百科事典からでも習得できる。なのに大学に通う人はいなくならない。ということは、それなりの理由があるからじゃないか?
それは、断片的な知識をいくら寄せ集めても教育にはならないからだ。データはいくらあっても、それだけでは意味をなさない。創造的に考え、いろいろな問題を解決するためには、データや知識を文脈上で理解し、いろんな人と交流できる環境がどうしても必要だ。ひょっとすると、学習には、こういう環境的な条件のほうが断片的な情報を寄せ集めることより重要なんじゃないか。物事の関係というものは、人間にしか教えられないものだと思う。(228〜229頁)
「これだけ大量の情報がオンラインで自由に手に入るようになりました。さあみなさん、ご自由にお使い下さい」と言われても、ほとんどの人は何をどうしていいかわからない。データは「存在すること」に意味があるのではなく、「関連づけること」で初めて意味が発生するからだ。そしてほとんどの人はその関連づける方法を知らない。
インターネットは、わかりきった解答や数値、学術論文で満足できる人たちの情報空間だ。(214頁)
知識というものは、時間をかけて苦労しなければけっして身につかない。(243頁)
まったくその通りだろう。本当に価値のあるものは、きちんとしたレフェリー付きの雑誌に掲載されている。「浅く広く」を「できる限り速く」という場合は便利だろうが、そうして寄せ集められた情報は、知的生産活動の産物とは呼べない。
結局のところ電子メールは、その速報性のわりには、郵便書簡ほどまともに取り合ってもらえない。その証拠に、僕が電子メールで友だちに論文の批評を求めても、返事をくれるのは半数ほどだ。なのに、同じことを郵便で送ると、全員が返事をくれる。どうやら僕だけではないようだ。電子メールの返事を翌日まわしにするのは。(281頁)
要するに、電子メールは熟考より反射神経なのだ。電子メールは、言葉に重みを感じさせないから僕らも言葉を軽々しく扱い、意味のこもったメッセージをやりとりしない。(283頁)
これも簡便さがよいことばかりとは限らないことの一例である。情報の量とスピードが上がっても、生身の人間の情報処理速度は上がらない。そこで起こるのは、一つ一つの情報の吟味にかける時間と情熱の著しい低下である。それが大衆の孤独感を助長し、無意味な情報のさらなる発生につながっている。悪循環である。
「利用の簡便性」が学術研究にもたらす弊害についても言及されている。
学者というものは、相当真面目な人も含めて、手軽に入手できる情報であれば、たとえそれが粗悪なものであっても使いたがるものらしい。つまり多くの学者は簡単に見つかる情報で満足してしまい、あえて時間をかけて良質の情報を収集しようとはしないというのだ。(中略)トーマス・マンいわく、『もしも情報サービスによって、特定の資料だけが簡単に入手できるようになれば、ことに、簡単に入手できるのは表面的で内容の薄いものだけというような状況になれば、学術研究のレベルは低下しかねません。なぜならば、情報サービスの利用者は、簡単に入手できる情報であれば、内容の是非とは関係なしに、それで間に合わせてしまうからです』
つまり、僕らは怠け者だから、内容より簡単に手に入ることのほうを優先させてしまう。その証拠に、学者の多くは、情報であれば、オンライン化されてるというだけで、内容がどうであろうとすぐに飛びついてくる。学者のあいだでは、何もないよりは何かあったほうがいい、という考え方が幅をきかせている。(308〜309頁)
インターネットにばかり頼っていると、デジタル的な概念でしか思考できなくなる恐れがあると筆者は言っている。例えば、一見便利に見えるコンピュータのキーワードリストは、「それが広く浅く検索した結果なのか、狭く深く検索した結果なのかわからないから、いつも不安がつきまとうことになる。」(331頁)そのような情報を使って研究を行うことは、「学術リサーチを冒瀆するようなものだ。」(同上)与えられた分類の網にかからない情報は、最終的には自分の目と手と足を使って探すしかない。
読み違えてはいけないのは、筆者はインターネットは役に立たないし必要ないなどと言っているのではなく、それは万能薬(スネークオイル)ではないから、情報の収集や保管の媒体として依存しすぎるのはよくないと言っていることである。10年以上も前の本ではあるが、この主張の有効性は今も変わっていない。