「挫折こそ万能の父」

朝日新聞2012年10月9日朝刊より。

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高校では柔道、大学ではラグビー、いまもフルマラソンを走る。人情味が厚く、講演では笑いも起こる。50歳の若さでノーベル賞受賞が決まった山中伸弥・京都大教授はまるで「スーパーマン」。しかし、快挙への道のりは平坦(へいたん)ではなかった。

手術が下手で整形外科医を断念。研究がうまくいかず、それもあきらめかけた――。京都大教授の山中伸弥さん(50)は、数々の挫折を味わってきた。

メスを持つ手は血まみれだった。神戸大医学部を卒業して研修医になったばかりの25歳のころ。初めての手術だった。上手な医師なら10分ほどで終わる良性腫瘍(しゅよう)の摘出が、1時間たっても終わらない。手術台の患者に謝った。「すまん」

患者は、中学からの親友、平田修一さん(50)だった。顔は布で覆われていたが、局部麻酔で声は聞こえる。

「すまんて、どうゆうことや? ほんま頼むで……」

山中さんは講演のたび、この時のことを話す。「とにかく手術が下手で。それで整形外科医になるのをあきらめました」。口の悪い先輩からは、邪魔ばかりで役立たずの「ジャマナカ」と呼ばれた。

(中略)

研究者への転身を考えた。大阪市立大大学院で薬理学を学び、米グラッドストーン研究所に留学。ノーベル賞級の学者らとざっくばらんに討論できる自由な研究所だった。そこで始めたES細胞(胚性幹細胞)の研究が、iPS細胞の作製につながっていく。

帰国後、再び壁にぶち当たった。助手として、研究よりマウスの世話に追われる日々。飼育専門の職員がいる米国と比較にならなかった。ある日、研究室から学校帰りの娘が見えた。

「俺は何でネズミのケージ交換ばかりしてるんだろう」。情けなく思えた。

朝6時に起きていたのが、9時になっても起きられない。研究室に行くのがおっくうで、閉じこもりがちになった。「臨床医に戻ったら?」見かねた妻知佳さんが言った。

「これでだめなら、研究をあきらめる決心がつく」と1999年に応募したのが、奈良先端科学技術大学院大の助教授の職だった。ほかの応募者はみな、実績も経験もある人ばかり。「背水の陣」の山中さんは大風呂敷を広げた。「ES細胞の特性を解明する」

選考委員だった安田国雄・前学長(70)は「結果が読めそうなテーマが多い中、挑戦的だった。ある質問に『できます』だけでなく、『やります』と答えたのは山中さんだけ。人柄とやる気で彼がベストだった」。

(中略)

時計を分解しては叱られ、アルコールランプを倒し机の上を火の海にした少年時代、尊敬するのは父・章三郎さんだった。大阪府東大阪市でミシンの部品工場を営んでいた。そんな父に言われた。「お前は商売に向いてない。医者になれ」

研修医になった時、章三郎さんが入院した。注射を打つと、「下手だなぁ」と痛がりながらもうれしそうに笑った。章三郎さんが亡くなったのは、研究者に転じる前。「父は天国で僕が医者を続けていると思っているはず。いつか会った時に報告できるよう、早く実際の治療に結びつけたい」

http://www.asahi.com/science/update/1009/OSK201210080148.html