読書に淫することなかれ(西部邁)

人生読本

西部邁『人生読本』ダイヤモンド社、2004年より。

 

読書好きの人間には、えてして、インダルジェンス(耽溺)といった雰囲気がつきまとう(中略)あれも読んだこれも読んだ、あの人はああ書いていたこの人はこう書いていた、といった調子で口角に泡を飛ばす、それが本好きにありがちの振る舞いです。(p.224)

 

それが少なからず気味悪いものにみえるのはなぜでしょうか。一つに、ブッキッシュ(書物の上だけ)でペダンチック(物知り顔)な連中には、経験の重みにも決断の深さにも無知であると見当がつくからです。二つに、大概の書物は、何らか特定の感情や視点や理屈を誇大に強調しており、しかもその誇大宣伝が著者自身の売名行為になっているからです。両方をまとめていうと、本好きであることを公言するのは、それ自体において、自分を周囲から際立たせるための方便であることが少なくありません。(pp.224-225)

 

たしかにコンスピキュアスである(際立つ)のは人間の常なる欲求であるのかもしれません。しかしその欲求は、きわめて容易に、オステンティシャス(みせびらかし)の言動へとつながっていきます。それは単なる精神の衣裳であり、読んだ書物がその人の言行のなかに血肉化していないことの現れです。(p.225)

 

言行に血肉化された知識の場合、言行一致に危険や危機がつきものである以上、それを公表するには勇気が要ります。覚悟がなければなりません。ですから、自分の読書体験について暢気に喋っているわけにはいかないのです。(p.225)

 

読書は「平凡の非凡」を知るためになされます。つまり、万巻の書を読んだ揚げ句に辿りつくのは、それらを読まなくてもわかっていたはずの真理なのです。ただ、その真理が不動のものとなったのは、たしかに、読書のおかげなのです。(p.227)