評論家・学者に向いている人とは?

評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書)

小谷野敦『評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に』(平凡社新書、2004年)より。

 

言うまでもないことだが、評論家を目指すとしたら、とにかく読書が好きでなければならない。作家で、読書が嫌いだという人もいるけれど、作家ならそれでもいいかもしれないが、評論家はそうはいかない。だから、遊ぶのが好きだとか、大酒呑みだとかいう人は、評論家に向いていない。パーティーなどに出ていても、まっさきに帰るようでなければならない。競馬が好きで競馬評論家になるとか、美食が好きでグルメ評論家になるとか、そういうことはいいけれど、文藝や社会の評論家で、競馬やら美食やらが好きだというのは、あまり優秀な評論家にはならないだろう。(p.134)

 

明治期の英語学者、斎藤秀三郎は、学問に費やす時間がもったいないので、手紙が来ても内容が分かるものは開封せずに放っておいたという。また、七人の子供を作ったが、その七人の結婚式にはどうしても出席しなければならないから、一生のうち七日だけ無駄な日ができると言ったそうである。それくらいの気構えが、学者・評論家には必要なのであって、世間から「義理知らず」「つきあいが悪い」と言われたり、妻から人非人と言われたりすることくらいは、覚悟しておくべきである。(p.135)

 

とにかく、時間を惜しまなければならない職業である。本を読むにしても、一冊の本にとりかかったら、たとえつまらなくても最後まで読み通さないと気が済まない、というような人がいる。これは、学者・評論家には向いていない。「読む価値なし」という見極めは早くつけて放り出すのがいい。もし、後ろのほうに自分にとって重要なことが書いてありそうだったら、飛ばし飛ばし読むといい。むかし「クイズダービー」というTV番組で、フランス文学関係の問題が出て、フランス文学者の篠沢秀夫が間違えたことがあった。司会の大橋巨泉が、教授、知らないんですか、と訊いたら篠沢は、「本を全部読んでたら学者なんかできない」と答えたのである。これは篠沢が優秀な学者であることを如実に示している。もちろん、いま自分が論じようとしている対象は、熟読すべきであるのは言うまでもない。(pp.135-136)

 

世には実に多くの「文章読本」の類がある。だが、あの手のものを読んで文章が巧くなるなどということは、まずない。文章を巧くするために必要なのは、たくさん書くことであり、たくさん読むことである。(p.137)