「人間機械の絶望がファシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌」(E. フロム)
エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社、1951年より。
※下線・強調は引用者
われわれの願望――そして同じくわれわれの思想や感情――が、どこまでわれわれ自身のものではなくて、外部からもたらされたものであるかを知ることには、特殊な困難がともなう。それは権威と自由という問題と密接につながっている。近代史が経過するうちに、教会の権威は国家の権威に、国家の権威は良心の権威に交替し、現代においては良心の権威は、同調の道具としての、常識や世論という匿名の権威に交替した。われわれは古い明らさまな形の権威から自分を解放したので、新しい権威の餌食となっていることに気がつかない。われわれはみずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形となっている。この幻想によって個人はみずからの不安を意識しないですんでいる。しかし幻想が助けになるのはせいぜいこれだけである。根本的には個人の自我は弱体化し、そのためかれは無力感と極度の不安とを感ずる。かれはかれの住んでいる世界と純粋な関係を失っている。そこではひとであれ、物であれ、すべてが道具となってしまっている。そこではかれは自分で作った機械の一部分となってしまっているのである。かれは他人からこう考え、感じ、意志すると予想されると思っている通りのことを、考え、感じ、意志している。かれはこの過程のなかで、自由な個人の、純粋な安定の基礎ともなるべき自我を喪失している。(pp.279-280)
この同一性の喪失の結果、いっそう順応することが強制されるようになる。それは、人間は他人の期待にしたがって行動するときにのみ、自我を確信することができるということを意味する。もしわれわれがこのような事情にしたがって行動しないならば、われわれはたんに非難と増大する孤独の危険をおかすだけでなく、われわれのパースナリティの同一性を喪失する危険をも犯すことになる。そしてそれは狂気におちいることを意味するのである。(p.280)
近代人はかれがよしと考えるままに、行為し、考えることをさまたげる外的な束縛から自由になった。かれは、もし自分が欲し、考え、感ずることを知ることができたならば、自分の意志にしたがって自由に行為したであろう。しかしかれはそれを知らないのである。かれは匿名の権威に協調し、自分のものでない自己をとりいれる。このようなことをすればするほど、かれは無力を感じ、ますます同調するように強いられる。楽天主義と創意のみせかけにもかかわらず、近代人は深い無力感に打ちひしがれている。そしてそのために、かれはあたかも麻痺したように、近づいてくる破局をみつめている。(pp.281-282)
もし興奮を約束し、個人の生活に意味と秩序とを確実にあたえると思われる政治的機構やシンボルが提供されるならば、どんなイデオロギーや指導者でも喜んで受けいれようとする危険である。人間機械の絶望が、ファッシズムの政治的目的を育てる豊かな土壌なのである。(p.282)